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小宮豊隆 : ウィキペディア日本語版
小宮豊隆[こみや とよたか]
小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年明治17年)3月7日 - 1966年昭和41年)5月3日)は日本の独文学者、文芸評論家、演劇評論家、日本学士院会員。
夏目漱石の門下生として、大正6年に始まる『漱石全集』編纂に長く関わり、伝記等多くの優れた著作を残した。他方、漱石を崇拝する余り神格視することが多いとして、「漱石神社の神主」と揶揄されることが戦後の一時期にあった〔川副国基『近代日本文学論』p.245。他方、平岡敏夫は、『夏目漱石』(岩波文庫 下巻 pp.327 - 8)の解説で次のように指摘する。「この漱石伝は漱石没後二十余年にして小宮豊隆が吐露した自己批判・自責の書でもあって、右のような大患以後の漱石を、当時とは逆に高く評価しようと試みたのが本書ということになる。 「漱石は死を生の中に織り込み、生を死の中に織り込み、こうして相互に反撥し矛盾する二つのものを、一つのものに連結させたいと希(こいねが)った。「則天去私」は、その事を可能にする唯一の道であった」(七〇 「『硝子戸の中』」)という漱石像がそこに描き出されてくるが、唐木順三も含めての戦前のこの則天去私的漱石像の反措定を目ざしたのが、江藤淳『夏目漱石』(昭三一)をはじめとする戦後の漱石研究であった。 「この病中で経験した天宝(ブリス)によって、漱石の思想が一大転換を来すという小宮豊隆氏などの解釈は、当り前の人間並に自分に訪れた仮死状態に驚喜し、病気に一種の幸福を感じている作家の姿を、門下生特有の感傷で歪めたものにすぎない」 といった江藤氏の批判とともに、実は若き日の小宮豊隆ら門下生自体が大患後の漱石を 「老」 「翁」 などと批判していた事実を記憶しておくのも、サークルをくり返しがちな研究史の上でたいせつなことだろう。」〕。
漱石の『三四郎』のモデルとしても知られる。俳号の逢里雨(ほうりう)は、豊隆の音読み(ほうりゅう)に別の字を宛てたもの。子に同じく独文学者の小宮曠三がいる。
==略歴==
福岡県仲津郡久富村(現在の京都郡みやこ町)に生まれる。旧制の福岡県立豊津中学校(現在の福岡県立育徳館高等学校)を経て第一高等学校 (旧制)(現在の東京大学教養学部)に進む。同学年に安倍能成中勘助藤村操尾崎放哉岩波茂雄がいた。
1905年(明治38年)東京帝国大学文学部独文科に入学。大学時代に夏目漱石の門人となり、寺田寅彦森田草平芥川龍之介、、鈴木三重吉久米正雄松岡譲野上豊一郎津田青楓たちと交際。1908年卒業。1920年海軍大学校嘱託教授、1922年法政大学教授、23-24年ヨーロッパに行く。1925年東北帝国大学法文学部教授。1946年同定年退官(48年名誉教授)。〔「小宮豊隆年譜」『逢里雨句集』〕
独文学者としては、慶應義塾大学講師や東北帝国大学法文学部教授や図書館長を務めた。1946年(昭和21年)に東北帝国大学を辞してからは、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の校長や国語審議会委員などを歴任。東京音楽学校の校長時代に、森田たまの紹介で伊福部昭を作曲科講師に迎えた。49年退職。1950年(昭和25年)3月には当時学習院院長だった安倍能成に招聘され、学習院女子短期大学の初代学長に就任。1957年(昭和32年)3月まで務めた。1951年に学士院会員となる。
歌舞伎俳句などの伝統芸術にも造詣が深かった。特に松尾芭蕉に関しては、1925年大正14年)から、「閑さや岩にしみ入蝉の声」に出てくる蝉はアブラゼミニイニイゼミかという問題を巡って齋藤茂吉と2年越しの論争をおこなった。小宮は「しづかさや、とか、岩にしみ入るといった表現 は、威勢のよいアブラゼミにはふさわしくない。この蝉は、ニイニイゼミであろう」と主張。結局、この句は山形県の立石寺で旧暦5月27日(新暦で7月下旬)に作られたことと、この時期に山形でアブラゼミは鳴かないことが明らかになり、齋藤は論破された。
小宮が一般になじみ深いのは、漱石や寺田寅彦の編纂・伝記を通じてである。1954年(昭和29年)には、浩瀚な漱石伝『夏目漱石』(1938年の初版を新書版三冊に改訂刊行したもの)で日本芸術院賞を受賞〔『朝日新聞』1953年2月10日(東京本社発行)朝刊、7頁。〕。
また初代中村吉右衛門を若い頃から評価し、折々に吉右衛門論を綴ったものが、後年『中村吉右衛門』として纏まっている。歌舞伎、能、俳句等、日本文化の諸相に通じた論客であった。
ロシアイワン・ツルゲーネフスウェーデンヨハン・アウグスト・ストリンドベリの訳書もあり、本来の専門分野にとらわれない幅広い活動をおこなった。ロシア出身の日本学者の祖セルゲイ・エリセーエフとは終生の友人であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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