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小峰義親[こみね よしちか] 小峰 義親(こみね よしちか、天文10年(1541年) - 寛永3年2月6日(1626年3月4日))は戦国時代から江戸時代初期にかけての大名、武将。白河結城氏13代当主。結城顕頼の子と言われているが、結城晴綱の子または弟であるという異説もある。別名に不説斎。奥羽永慶軍記では「不悦斎」とも記される。また、隆綱と同一人物とする説もある(後述)。上野介、左衛門佐。従五位下。室は蘆名盛氏の娘。子に大関晴増室、藤巻正成。養子に義広、義綱。 ==出自== 永正の変により断絶していた白河結城氏の庶流である小峰氏を継いでいた。宗家の結城晴綱の存命中はあまり政治の場に表れることはなかったが、晴綱が病により当主としての活動が困難になると、家中の実権を握るようになる。天正元年(1573年)に晴綱が病死し幼少の結城義顕が家督を継ぐと、その後見人となって白河結城氏を取り仕切った。しかし、天正3年(1575年)〔天正2年(1576年)とする説もある。〕 に家老の和知美濃守と図って義顕を追放し、結城(白河)姓を名乗って自らが白河結城氏の当主となる(天正の変)。義親の謀反の原因は、自身の野心によるものとも、岳父の蘆名盛氏に唆されたからともいわれているが、真意の程は不明。また、最近は義親は晴綱の嫡男(または弟で養子になったとも)であり小峰氏は継いでおらず、家督簒奪ではないという説も出てきている。 なお、『白河市史』の編纂の過程で、晴綱の没後に結城白河氏の当主になったのは、系図上では存在を知られていなかった「結城隆綱」であることが明らかになったが、この人物について義親の初名である説が有力視される一方、晴綱と義顕の間に位置づけて義親の謀叛によって白河を追放された当主とみる説もある〔市村高男「白河結城文書の形成と分散過程」(村井章介 編『中世東国武家文書の研究』(高志書院、2008年)所収)〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小峰義親」の詳細全文を読む
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