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小島事件(おじまじけん)は、1950年(昭和25年)に静岡県庵原郡で発生した強盗殺人事件である。 1950年5月10日深夜、庵原郡小島村で、女性が斧で撲殺される事件が発生した。国警静岡県本部から派遣された警部補の紅林麻雄らによる捜査の結果、同村に住む27歳の男、Aが被疑者として浮上した。Aはほどなく犯行を自供したが、公判の段階では自供を翻し、取調べでは拷問を受けたとして無実を訴えるようになった。また、事件には自供以外の直接証拠も乏しかったが、一審の静岡地裁と控訴審の東京高裁はともに無罪主張を退け、Aには無期懲役の有罪判決が下された。 しかし、1958年(昭和33年)に最高裁は、Aが取調べ後に負傷していた可能性や自供の不自然性を指摘し、自供は無理のある取調べの末に得られたもので任意性に疑義がある、と判決した。最高裁により有罪判決は東京高裁へ破棄差戻しされ、差戻審によっても、やはり取調べは強制的なものであったとして自供の任意性は否定された。1959年(昭和34年)に差戻審で下された無罪判決が確定し、事件は冤罪と認められた。 == 事件と捜査 == 1950年(昭和25年)5月10日深夜、静岡県庵原郡小島村で、飴製造業者の妻B(当時32歳〔大竹、大野、内田 (1964) 32頁〕)が薪割り斧で撲殺された〔朝日新聞社 (1984) 109-110頁〕。現場のタンスや金庫には物色された跡があり〔佐藤、真壁 (1981) 27-28頁〕、後に2500円が奪われていることが分かった〔。Bの夫は引越し準備のため不在であったが、現場に居合わせた夫妻の子供は、犯行直後に坊主頭でカーキ色の服を着た男が逃げてゆくのを目撃している〔佐藤、真壁 (1981) 26頁〕。現場の時計が11時37分で止まっていたことから、犯行時刻はその前後であると推定された〔。 翌朝には国警静岡県本部から、警部補の紅林麻雄を主任とした捜査員らが派遣された〔。狙われた家は村でも大きくなく、被害者一家には家業で儲けているとの噂もあったことなどから、紅林らは内情を知る村の者が金銭目当てで犯行に及んだ、と推測した〔。だが、大規模な捜査によっても手掛かりはなく、また村人のほとんどが縁者であったことからも捜査は難航した〔。 しかし、事件から1か月が過ぎようとしていた頃、村人たちへの聞き込みから、同村の農民であるA(当時27歳〔「弁護士海野普吉」刊行委員会 (1972) 479頁〕)が浮かび上がった〔佐藤、真壁 (1981) 28-29頁〕。AはBの娘の目撃証言とも髪型や年齢などが一致していた〔刑集第12巻第9号 2025頁〕。また、事件以来顔色が悪くなったと噂され、事件当時のアリバイもはっきりせず、加えて被害者一家に5000円の借金があった〔。加えてAは、Bの夫から持ちかけられたサツマイモの闇取引で、自分だけが罰金刑を受けたため、被害者一家に対し恨みを抱いていたとも言われていた(これらについてAは、5000円は借金を頼まれていた第三者に又貸ししたところ、返ってこなくなったのだと主張し、闇取引の件についてもBたちを恨んでいたことはない、と主張している)〔刑集第12巻第9号 2079-2081頁、2100-2101頁〕。 事件発生から1か月余りが経過した6月19日、Aは庵原地区署へ任意同行を求められ、材木などの窃盗容疑につき、同日中に別件逮捕された〔。窃盗の件はすぐに不起訴となったが、翌20日から本件の強盗殺人容疑で再逮捕される7月12日、そして本件で静岡地裁へ起訴される7月20日までの間、AはB殺害の容疑で取調べを受け続けた。別件逮捕の翌日の6月20日、AはB殺害を自供した〔。だが、事件にはAの自供を除いては直接証拠がなく、後の裁判でも、争点は自供の任意性と信用性に収束した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小島事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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