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小島 伊助(おじま いすけ、1894年 - 1992年)は、日本イエス・キリスト教団の指導者。日本のきよめ派に大きな影響を与えた。 == 生涯 == 1894年、千葉県に生まれる。1905年(明治38年)4月16日千葉県銚子町の利根川河口でD・H・ソートンから洗礼を受ける〔『両米福音行(後編)』P.165〕2人の姉がホーリネスの聖書学院で学んでいたときに、中田重治に会う。しかし、中田には師事しなかった。堀内文一にも大きな影響を受ける。 1913年、神戸聖書学校でバークレー・バックストンに学び大きな影響を受ける。舟喜麟一、野畑新兵衛、鋤柄熊太郎などが同級生である。1918年に24歳で神戸聖書学校を卒業して郷里の銚子に開拓伝道に遣わされる。1922年9月に舟喜麟一が中心となって、大間々町で堀内文一と小島を講師に約2週間の天幕伝道を行った。また、1940年垂水教会の主管牧師になり、1942年に辞任した。 1951年日本イエス・キリスト教団の成立の際に、初代委員長になる。1958年委員長を副院長の道城重太郎(1965年まで)に引き継ぐ。また、その間きよめ派の教団の修養会に頻繁に招かれて説教をする。 1953年10月、1954年3月にはバプテスト系の山形福音伝道隊の集会に講師に招かれたり説教者として活躍した。 米国シアトルの日本人教会から訪米の誘いを受け、1954年6月25日にウィルソン号に乗り、神戸港から出航する。27日に横浜港に寄港したときには、舟喜順一が見送りに来た。〔『両米福音行(前編)』P.28〕 7月4日にホノルルに寄港、7月9日カリフォルニアに到着する。7月21より、ギルロイでのホーリネス教団夏季修養会で説教して、ロサンジェルス、サンディエゴに行く。そして、鉄道で大陸を横断し、デンバーとグリーンフィールドに寄る、シカゴに滞在中にホイートン大学で留学中の舟喜信たち学生と食事をする。10月14日シアトルに到着する。サン・ロレンゾ・ホーリネス教会での創立25周年聖会の説教をする。 11月28日に空路でプロジルのサンパウロに到着した。各地を巡回伝道した後、翌1955年4月17日ロサンジェルスに戻る。7月15日空路で羽田空港に帰国する。 神学校関係でも説教に招かれ、1961年3月には共立女子聖書学院の卒業式で説教をした。翌1962年3月には、東京基督教短期大学の卒業式で説教をした。1975年に「聖顔の輝き」という著書を著した。 1991年日本福音振興会より、福音宣教への功績が認められ、第1回日本福音功労賞の表彰を受けた。森山諭、鈴木留蔵らも同時に表彰を受けた。〔石井忠雄『実を結ぶ人生』P.58〕 小林和夫などきよめ派の指導者たちに大きな影響を与えつつ、1992年死去する。密葬にて葬儀が行われ、教え子であった小林和夫も立ち会う。〔小林和夫著『テサロニケ人への手紙』ホーリネス教団出版局、1995年、P.72-73〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小島伊助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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