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小島 太(こじま ふとし、1947年4月11日 - )は、日本中央競馬会(JRA)に所属する調教師、元騎手である。美浦トレーニングセンター所属。 1966年に騎手デビュー。若手時代から「サクラ」を冠名とする全演植所有馬の主戦騎手を務め、サクラショウリ、サクラチヨノオーによる東京優駿(日本ダービー)制覇をはじめ、1996年の引退までに八大競走・GI競走10勝を含む重賞84勝を挙げた。通算8476戦1024勝。大競走における勝負強さや独特のキャラクターから華のある騎手と見なされたが、他方では騎乗ミスにより数々の勝利を逃した騎手ともされ、毀誉褒貶の激しい存在であった。ファンからは「フトシ」の愛称で親しまれた。 1996年3月より調教師に転身。主な管理馬にはGI競走2勝のイーグルカフェや同3勝のマンハッタンカフェなどがいる。 調教助手の小島良太は次男、小島勝三は三男〔木村(1997)p.149〕、騎手の小島太一は四男。 == 経歴 == === 生い立ち === 1947年、北海道斜里郡小清水町に馬商と装蹄師を兼ねる小島竹次郎、母・ツネの間に次男として生まれる〔木村(1998)pp.46-48〕。家業の関係から幼少のころより馬に親しんで育ち、草競馬にも出場していた〔小島(1993)pp.54-56〕。小学生になると夏休みには手伝いとして道営競馬に出入りし、高学年に入ってからは武芳彦(武邦彦の父)に許可を得て中央競馬の競馬場にも足を運んだ〔。同時期に10戦無敗の名馬トキノミノルの生涯をモデルとした映画『幻の馬』に強い感銘を受け〔、またNHKが放送した日本ダービーの様子(ゴールデンウエーブ優勝)などにも触れ〔、騎手への憧れを募らせた。 少年時代は騎手になることについて強迫的な心情を抱いており、成長期に背が伸び始めると、それ以上伸びないよう箪笥の引き出しで眠った、足が大きい子供は大きく育つという話を聞き、包帯で足を巻き付けて眠った、という話も伝えられている〔『優駿』2007年9月号、pp.137-140〕。騎手養成課程を受験するときも、「もし落第したら青函連絡船から飛び降りて死ぬ」という覚悟であったという〔。また中学生の時、小清水の町営牧場でたまたま出くわした競馬関係者という高校生に対し「東京で騎手になりたいんです」と打ち明けたところ、「無理だね。君は背が大きすぎるようだ」と突き放されたという話がある。この高校生は、後に三冠馬ミスターシービーなどを管理する松山康久で、東京から修学旅行で北海道を訪れていた〔寺山(1992)p.187〕。実際に小島は騎手課程受験時点で身長163cm、体重50kgと、騎手を目指すにはかなり大柄だった〔。 1962年秋に中央競馬の騎手養成長期課程を受験し合格〔小島(1993)pp.57-58〕。翌1963年春、中学校卒業後に騎手課程第14期生として入所した〔。同期生には田島良保、安田富男、目野哲也、平井雄二、池上昌弘などがいる。なかでも田島良保とは「血を分けた兄弟みたいなもの」と語る親友となり、2年次の厩舎実習は共に東京競馬場の高木良三厩舎で行った〔小島(1993)pp.63-64〕。高木厩舎からは、小島・田島が騎手課程に合格した直後から入門を誘う手紙が送られていた〔。父・竹次郎は当時最大の勢力であった尾形藤吉厩舎への入門を望んでいたが、小島は「一流騎手が多く所属する尾形のもとでは騎乗機会に恵まれない。自分を欲しいと言ってくれる厩舎へ行く方がいい」と主張し、騎手課程修了後にそのまま高木厩舎所属となった〔。これに伴い、当時高木厩舎に1頭だけ馬を預託していたさくらコマースの全演植と出会う〔小島(1993)pp.77-78〕。竹次郎が厩舎へ挨拶に訪れた際、同座していた数人の馬主のうち竹次郎は全に小島の後援を頼み、全もこれを引き受けた〔木村(1998)p.48〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小島太」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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