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小川 博文(おがわ ひろふみ、1967年3月6日 - )は、千葉県館山市出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球指導者。 == 経歴 == === アマチュア時代 === 中学生までは館山市で軟式野球をしており、当時の顧問の勧めで創立5年目の拓大紅陵高にに進学した〔週刊ベースボール、2002年8月26日号P.65〕。当初は硬式野球経験のあるシニアリーグ出身者に遅れを取ったが、監督小枝守の下で厳しい練習に取り組み二塁手として成長。2年夏にはレギュラーの一番打者となり、秋からは三番打者を務めるようになった。同年秋の関東大会では大島公一らを擁する法政二高と準々決勝で対戦し、サヨナラタイムリーを放ってベスト4に進み同校初の全国大会となる選抜大会への出場を決めている〔。 選抜本大会では初戦の対智辯学園戦で3ランホームランを放つなど3安打4打点の活躍を見せ〔読売新聞、1984年3月27日付夕刊、P.14〕、二回戦では再び法政二高を破った。準々決勝ではKKコンビを擁するPL学園と対戦して桑田真澄に3打数無安打2三振と抑えられ、チームも完封負けを喫している〔読売新聞、1984年4月2日付夕刊、P.14〕。3年夏の選手権大会にも出場し、大会前には優勝候補の一角に挙げられた〔。しかし初戦の対鹿児島商工戦で増永祐一に4打数無安打に抑えられ、5対0で敗れている〔読売新聞、1984年8月14日付朝刊、P.12〕。 野球部部長の川俣幸一の勧めもあり、高校卒業後は社会人野球へ進む事を決断。複数の企業からオファーがあったが、次期監督の石山建一自らが来校したプリンスホテルに進んでいる〔。3年目のには都市対抗と日本選手権でともに2本塁打を放つなど三番打者として活躍し、初の社会人ベストナインに二塁手として選出された。翌にはソウルオリンピック日本代表に同僚の石井丈裕や中島輝士とともに選出され、二塁手として全試合に先発出場している〔別冊宝島、1545号、P.68〕。予選リーグでは七番、準決勝と決勝では六番打者を務め、チーム3位の打率.368と同1位の2盗塁の成績を残し、堅守と広角打法でチームを支えた〔別冊宝島、1545号、P.70〕。また、決勝戦ではジム・アボットから先制点に繋がる二塁打を放っている。 社会人の4年間で通算打率.430、50本塁打を記録し〔スポニチアネックス 日めくりプロ野球09年6月 〕、同年のドラフト会議でオリックス・ブレーブスから2位で指名を受けて入団。契約金、年俸はそれぞれ5,800万円、720万円(推定)だった〔読売新聞、1988年12月15日付朝刊、P.19〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小川博文」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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