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小川宮[おがわのみや]
小川宮(おがわのみや/こかわのみや、応永11年6月28日(1404年8月4日) - 応永32年2月16日(1425年3月6日))は、室町時代の日本の皇族。後小松天皇の第2皇子。母は日野西資国の娘・光範門院日野西資子。同母兄弟に、兄の称光天皇、妹の理永女王がいる。諱は伝わらず『本朝皇胤紹運録』はただ「皇子」とのみ記す〔中世の皇族が諱を命名される契機としては、元服と親王宣下のふたつがある。親王宣下に際して命名されるのは、皇后を母とする皇子など、将来の天皇として嘱望されている皇族の場合が多い。極端な例としては、生後16日で親王宣下を受けた後深草天皇、生後26日で親王宣下を受けた安徳天皇などがある。この場合は乳児であっても親王宣下と同時に諱が命名され、その後10歳から15歳ほどで元服する。親王になれる見込みのない不遇の皇族の場合は、元服の際にはじめて諱が命名される。23歳になってはじめて元服を遂げ諱を命名された後嵯峨天皇、40歳で元服した後崇光院などの例がある。さらに、元服を遂げることができなければ、諱を持たないまま一生を終えることになる。〕。追号は竜樹寺宮。 == 生涯 == はじめは単に「二宮」とだけ呼ばれ、父と同居していた。「儲君」と注されており〔『本朝皇胤紹運録』『薩戒記』〕、正式に皇太子に立てられることはなかったものの、称光天皇の後継者に指名されていたようである。しかし、兄に似て精神に異常があり、応永27年(1420年)1月3日には、正月の儀式の最中に妹を「蹂躙」する事件を起こしている。「蹂躙」の内容は不明であるが、いずれにせよ暴力をふるったのである。原因は「淫事ゆえ」とされるので性的な問題であるらしい。このことで父の勘気をこうむり、仙洞御所を逃げだし、母の養父である日野資教邸に逃げ込んでいる。同年10月には勘気を解かれ、勧修寺経興に預けられた。経興邸が小川亭と呼ばれたのにちなみ、以後は「小川宮」と称された。 その後も素行は修まらず、応永30年(1423年)には、兄が飼育しかわいがっていたヒツジをひどくほしがり、強引に譲り受けておいて、即座に撲殺するという事件を起こしている。応永32年(1425年)2月16日、翌月に元服を控えながら、22歳の若さで急死した〔。あまりにも突然の死に毒殺の噂が立ち〔 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.169〕、経興が一時犯人として疑われた。 兄の称光天皇とは仲が悪く、皇太子にされた事に関しても兄帝の怒りを買っていたという〔。 今出川公行の娘が側室として仕えていたが、子どもはなく、後光厳天皇の系統は後継者を失うこととなり、皇統はやがて崇光天皇の系統へと移ることとなった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小川宮」の詳細全文を読む
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