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小川 正洋(おがわ まさひろ、1948年(昭和23年)5月15日 -)は、日本の政治活動家。民族主義者。三島由紀夫が結成した「楯の会」の3期生で第7班班長。三島、森田必勝と共に、憲法改正のための自衛隊の決起(クーデター)を呼びかける三島事件に参加した一員である〔「国会を占拠せよ ■第二回公判」()〕。 == 経歴 == === 生い立ち === 1948年(昭和23年)5月15日、会社員の父・敬と母・妙子の次男として千葉県山武郡松尾町借毛本郷に誕生〔「春の雪 ■第一回公判」()〕〔。3歳上の兄・直哉と姉がいた〔。その後、一家は千葉市仁戸名町(現・中央区仁戸名町)に転居した〔。 正洋は子供の頃に母親から、木口小平、広瀬中佐、乃木大将の話を聞かされ、一緒に映画『明治天皇と日露戦争』『敵中横断三百里』を見たことから、日本の歴史に興味を持つようになった〔「『日本刀は武士の魂』 ■第七回公判」()〕〔「『天皇中心の国家を』■第十五回公判」()〕。 天皇を敬う気持ちが自然に芽生えていた正洋は、中学2年の時に同級生が「天皇は税金泥棒だ」と言ったことに腹を立て、その同級生を殴ってしまったこともあった〔「『日本刀は武士の魂』 ■第七回公判」()〕。高校の時のクラス討議でも、「憲法を改正して(自衛隊を)軍隊にすべきだ」という正洋の意見に賛同する者は誰もなく、自衛隊は不必要で非武装中立にすべきという意見が多勢だった〔。 歴史の授業で、教師が江戸時代を武士が搾取していた時代と断定したことに疑問を持ち、教師と議論を戦わせたこともあった〔「非常の連帯 ■第十六回公判」()〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小川正洋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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