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小川 浩一(おがわ こういち、1965年5月10日 - )は、佐賀県佐賀市東与賀町〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、122ページ〕出身の元プロ野球選手(内野手)。 からまでの登録名は小川 皓市(読みは同じ)。 == 来歴・人物 == 佐賀学園時代はに1年生ながら6番打者として夏の甲子園に出場〔。その後、日本鋼管福山を経て、のドラフト2位で日本ハムファイターズに入団〔。広角打法のシュアなバッティングで、主に右投手先発の時に二塁手や三塁手としてスタメン出場し、左の代打の切り札としても活躍した。内野全ポジションおよび外野を経験したユーティリティープレイヤーではあったが守備はあまり得意ではなく、小川に代わってよく守備固めをしていたのが、後にキャプテンとなり遊撃手としてブレイクした広瀬哲朗。 打撃フォームは独特で、テニスのドライブショットのようなテイクバックをしていた。 のオープン戦でルーキーの野茂英雄から本塁打を打ち、「野茂? たいしたことないね」という発言がマスコミにとりあげられたが、本人はその発言を否定している。 1990年5月9日の対西武ライオンズ戦(東京ドーム)で、西武先発の渡辺久信が9回まで日本ハム打線をノーヒットに抑えていたが、味方も点を取れず0対0のまま延長に突入。延長11回1アウトから、渡辺のノーヒットノーランの夢を打ち砕くヒットを放った。なお、村田兆治の200勝達成時の最後の打者でもある。オフに戦力外通告を受け、に福岡ダイエーホークスにテスト入団するが、一軍出場は無く、同年限りで現役引退〔。 現在は社会人野球クラブチーム「佐賀魂」のコーチを務めていたが、退団した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小川浩一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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