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小川 邦和(おがわ くにかず、1947年2月1日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == === プロ入り前 === 福山市立神村小学校時代より優等生で学校の成績はトップクラスだったが、福山市立大成館中学校卒業後、野球をやるために池田善蔵(元阪急ほか)が監督を務めていた尾道商業高校に入学する。先進的な指導を受け、エースとなる〔『野球小僧』2010年10月号、白夜書房、P222-231〕〔高校野球新世紀・第2部 白球列伝 〕。 この頃、下関商高・池永正明、北川工(現:府中東高)・高橋一三、倉敷商・星野仙一、松岡弘、岡山東商・平松政次、関西高・森安敏明らプロ野球史に名を残す名投手と山陽路で競い、秋季地区大会で準優勝。この結果、に春の選抜大会に出場する〔。 ノーマークだったが、独持のスリークォーター似のサイドスローから変化球を操る小川の2完封などで決勝へ進出。相手は3完封で勝ち進んで来た尾崎正司がエースの海南高校。第1回大会を除くと史上初の初出場対決となった決勝は、初めて外野席の入場制限が出るほどの大人気となった。試合は尾道商が7回までリードし、小川曰く「尾道市内をパレードしている姿が浮かんだ」が、体は既に限界を超え、8回に尾崎の三塁打などを浴び逆転。9回裏の尾道商2死満塁の逆転機に小川が一飛に終わり、2-3で敗戦、準優勝にとどまる。同年6月の新潟国体でも決勝に進出し、選抜で完封した博多工と対戦。エース橋本孝志と投げ合うが、今回は0-2で完封を喫しまたもや準優勝に終わる。同年の夏の県予選決勝では広陵に敗れ、甲子園出場を逸した。高校同期に四番打者、遊撃手で南海入りした田坂正明がいる。 その後は空前絶後の球歴を辿る〔『甲子園高校野球人名事典』東京堂出版、2004年、P61〕。1965年4月、早稲田大学第二文学部西洋哲学専修に入学。野球部には上級生に八木沢荘六、三輪田勝利など好投手がおり、なかなか出番がなかったが、3年生時から東京六大学リーグに出場。一年下の左腕投手、小坂敏彦とともに秋季リーグの優勝に貢献、しかし同季には田淵幸一にリーグ新記録となる22号本塁打を打たれている。リーグ通算22試合登板、10勝5敗、防御率2.70、63奪三振。大学同期には長倉春生(大昭和製紙)、蓑輪努(日本楽器)がいた。 1969年3月、早稲田大学第二文学部西洋哲学専修卒業、学位は学士。 その後、日本鋼管(現:JFE西日本)に進み、に日本石油、に三菱自動車川崎の補強選手として都市対抗野球大会に出場。に入団テストを受け、ドラフト7位で読売ジャイアンツに入団〔『野球小僧』2010年10月号、白夜書房、P222-231〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小川邦和」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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