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小平 芳平(こだいら よしへい 1921年(大正10年)8月13日 - 2001年(平成13年)6月18日)は、日本の政治家、宗教家。元参議院議員(4期)。 == 経歴 == 1921年(大正10年)長野県に生まれる。1936年、高等科2年を卒業、造り酒屋に奉公、1937年名古屋で水道局に勤める傍ら、夜学に通い、中学卒業検定試験に合格。1941年(昭和16年)春、上京し、中央大学に通う。同年秋、時習学館の新聞の講師求人広告に応募し、創価教育学会(後の創価学会)の牧口常三郎に出会い、入会する。〔『牧口常三郎全集』(全10巻)第4巻「月報」の「牧口常三郎先生と私」1981年12月刊〕その後、学徒出陣で、徴兵検査を受け、入隊、終戦を迎える。 戦後、復員すると、創価教育学会の活動に戻る 創価教育学会から名前を改めた創価学会で、教学部長、機関誌『大白蓮華』編集長などを歴任。1950年代から60年代にかけて学会が大きく会員(信者)数を伸ばしていった折伏大行進を教学や理論の面で支えた。 1956年、日蓮宗との『小樽問答』では、池田大作、辻武寿らと共に、創価学会側の弁士を務めた。 1956年7月8日、第4回参議院議員通常選挙に創価学会系無所属として立候補し、落選する。 1959年6月2日、第5回参議院議員通常選挙に立候補し、初当選。以後、連続4回当選を果たす。 1961年11月27日、公明政治連盟が結成され、参加。政策調査会長に就任する。公明政治連盟は3年後の1964年11月17日、正式な政党「公明党」に生まれ変わり、小平も結党から参加した。 1967年、公明党委員長の竹入義勝の下で公明党公害対策本部長に就任し、以降18年に渡り務める。 2001年(平成13年)6月18日、東京・港区の虎の門病院で死去〔第151回国会・参議院議員運営委員会会議録 - 参議院ホームページ、2011年1月14日閲覧。死亡診断書の内容が病院から参議院事務局に伝達されていた。〕。79才。葬儀は家族葬で行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小平芳平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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