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小御所会議(こごしょかいぎ)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都の小御所で行われた国政会議。同日に発せられた王政復古の大号令で、新たに設置された三職(総裁・議定・参与)からなる最初の会議である。すでに大政奉還していた徳川慶喜の官職(内大臣)辞職および徳川家領の削封が決定され、倒幕派の計画に沿った決議となったため、王政復古の大号令と合わせて「王政復古クーデター」と呼ばれることもある。その一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓挫した、雄藩連合による公議政体〔従来の譜代大名・旗本のみによる専断ではなく、全国の有力諸藩の合議により国政を運営しようとする論で、横井小楠・大久保一翁・勝海舟などの先駆的な人物が唱えていた。ただし具体的形式については、有力諸藩の藩主によるもの、全国の藩から議員を募ろうとするもの、大名会議(上院)と藩士会議(下院)に分けて召集するものなど、論者によって違いがあった。大政奉還の時点までに具体的に設置された諸侯会議機関としては、文久3年(1863年)末から翌年2月まで設置された参預会議、慶応3年(1867年)5月に開催された四侯会議などが挙げられるが、ともに諸侯間の意見不一致により短期間で崩壊した。詳細は公議政体論などを参照。〕路線の一つの到達点という面も持ち合わせていた。 この項では小御所会議前後の状況も合わせて記述する。 == 背景 == === 大政奉還後の政局 === 薩摩藩の大久保利通・小松清廉・西郷隆盛らは、5月の四侯会議の失敗から、従来の公議体制路線を改め、武力倒幕路線に転換する〔『大久保利通文書』慶応三年六月蓑田伝兵衛(薩摩藩家老)宛大久保一蔵書簡「此上は兵力を備へ声援を張御決策之色を被顕朝廷に御尽し無御座候而は中々動き相付兼候」。〕。大久保利通らは謹慎中の公家岩倉具視と連携し、討幕の密勅を得るべく朝廷に工作を始めていた。軍事的緊張が高まるなか、土佐藩では坂本龍馬の助言(船中八策)を受けた後藤象二郎が、武力激突を回避する大政奉還論を前藩主山内容堂に提案。自らの政治的影響力を保持したいと考えた将軍徳川慶喜はこれを受け入れ、10月13日在京の諸藩士を二条城に招集し、大政奉還を諮問した(翌日、朝廷へ奏上)。同じ13日、薩摩藩へ(翌日には長州藩へ)討幕の密勅が下される寸前に、倒幕派の機先を制した恰好となった。 慶喜としては、まだ年若い明治天皇(当時数え16歳)を戴く朝廷に政権担当能力はなく、やがて組織されるであろう諸侯会議で自らが議長もしくは有力議員となるなどの手段で、政治的影響力を行使できるはずという目論見の上での政権返上であった〔大政奉還の前日、慶喜は側近の洋学者西周と欧米の行政・議会制度について尋ねている。後に西が提出した「議題草案」では天皇を頂点とし、立法府として上・下院を設け、天皇(禁裏之権)・行政(政府之権)・諸侯会議(諸大名之権)の三権をもって国政統治するなどの構想が記されている。〕。果たして倒幕派の勢力はまだ弱く、10月21日朝廷は討幕の密勅の中止を指示、翌日には大名会議開催までの庶政を慶喜に委任する決定を下し〔この慶喜への庶政委任方針を取り計らったのは薩摩の小松であった。高橋2007、390頁。〕、さらに23日には外交権がまだ幕府にあることを認める通知を出す。こうした状況下、10月24日徳川慶喜は将軍職の辞表を提出するが〔佐々木2004、406-407頁。〕、これは一時朝廷から却下された後〔『明治天皇紀』一巻、535頁。〕、受理されている。 倒幕派は朝命で諸藩へ上京を命じるが、政局の激変を様子見している藩が多く、応じる藩は少なかった。11月13日島津茂久(薩摩藩主)率いる薩摩軍3000人が上京するが、他藩の動きは鈍かった(なお同じく倒幕派の長州藩は禁門の変以来朝敵となっており、入京を許可されていなかった)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小御所会議」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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