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小松公典 : ウィキペディア日本語版
小松公典[こまつ こうすけ]

小松 公典(こまつ こうすけ、1970年3月6日 - )は日本の脚本家である。
== 略歴 ==
1970年、兵庫県神戸市長田区に生まれる。当時、父親は還暦近く(大正2年生まれ)。母親とは再婚であり、前妻との間に3男2女を儲けていた。彼らの多くもすでに結婚・独立していたため、生まれながら叔父のポジションを得た。
生まれてしばらくは、隣接する兵庫区ソープ街、福原桜筋で深夜喫茶を営む母方の親戚宅にて過ごす。本人曰く、「ソープの残り湯が産湯だったかもしれない」。
●なお、この親戚宅には度々預けられたり訪ねたりであった。そのため、誰よりも早くブロック崩しインベーダーというテーブルゲームで遊ぶことが出来た。こうした環境と、コロコロコミックで連載されていた「ゲームセンターあらし」の影響で、ゲーセン通いがクセになる。その頃にプレイしたクレイジークライマーは、今でも人生ナンバー1ゲームである。
●また、演歌中心のジュークボックスや有線で、多様な昭和歌謡に触れることが出来た。
●また後年、小学生の頃からソープに出前持ちとして赴き、その裏側を見たりソープ嬢と接することが出来た。その当時に見聞きしたものが、脚本家としての己の源泉であると公言している。
●名倉幼稚園に入園。先生に廊下で立たされたのを不服として脱走。これが行方不明騒動となり、親に泣かれる。
神戸市立名倉小学校に入学。3年生の頃、自分で作った「イヤーン!さわらないで」という歌が、校内はおろか近隣の小学校にまで流行ってしまい、ちょっとした騒動になり、親に泣かれる。
●5年生の頃、父親が人工透析で週3回の通院を余儀なくされるようになると、たまに病院についていくようになる。が、その理由が小学生当時の自分なりにタイプだった看護師さんに会いたいがためというのがばれ、親に泣かれる。
●神戸市立丸山中学校に入学。1年生時の7月。父親と死別。その一報が届いたのは、自宅で欠かさず見ていた「必殺仕舞人」を見終わってすぐの頃だった。そのため、父親が気を遣ってくれたのだと信じ、親に泣かされる。
●担任が顧問だったことでバレーボール部に入部。1年生時、上級生に連れられていったキャンプ場のテントの中で、自慰とは何かとレクチャーを受ける。この経験を「伝承という言葉を使うべき、正しい上下関係」だと述懐している。
●中学2年生の頃、練習中にヘルニアで部室内で倒れる。駆けつけた保健の先生が介抱してくれるも、痛みに溢れ出す涙や涎を拭いてくれたタオルは、ボールに付いた犬の糞や泥を拭うためのものだった(先生は一切気づかず)。
先生にそれを伝えようとするも痛みで声が出ずじまいであった。この経験を本人は「若くて美人な先生から受ける、汚れたタオル攻め。これがM資質を芽生えさせたのかもしれない」と、感謝と共に語っている。
●この頃、たまたま目にしたソフィー・マルソーのあまりの可愛さに映画誌「ロードショー」を購入。ページをめくった途端、フィービー・ケイツ派に鞍替え。この時の心変わりを本人は「俺のラ・ブームは数秒で終わった」と語っている。また、同誌のモノクロページでロマンポルノ紹介を目にし、「俺の裸・ブームが始まった」とも語っている。
●中学3年生のクリスマス、友達と企画したパーティーで女子生徒達からのリクエストで酒を用意し、振る舞う。それが担任にばれて反省文を執筆。クラス単位で作成する卒業文集に掲載される。この時の気持ちを本人は「期待する展開は何1つなく、リクエストに応えただけで反省を強いられたことで世の不条理を身で知った」と、行き場を失った期待への悲しみと共に語っている。
●私立育英高等学校に入学。他校の女子生徒と会えるからという勧誘を真に受けて演劇部に入部する。確かに会えたが「だからといって何か始まるもんじゃない」と、身を持って知る。
●演劇部に入って初めての公演で与えられた役割はフットライトのスイッチ係。ただでさえ、スイッチをオンにするのは1回きりなのに、その1回を演出家が忘れたためにやることなしで公演終了。そのことについて本人は、「仮に指示があっても気づかなかったよ。寝てたし」と反省もなく語っている。
●卒業公演で初めて脚本を執筆。タイトルは「必殺デモクラシー・大正乱世編」。本人曰く、必殺シリーズが好き過ぎたあまりの中二病テイスト溢れる作品だったとのこと。劇中、客席を練り歩いて歌いながら歩く場面をおひねり目的で作ったが、本番では誰からも、親からですら貰えなかった。
●卒業後は中華料理屋や喫茶店のホール係などをしながら演劇活動を行うも、元来が映画好きだったために上京して日活芸術学院に入学。
1993年、日活芸術学院卒業後、しばらくはクロネコヤマトの荷物仕分けなどのバイトをしながら、シナリオを書く日々を送る。だが、阪神大震災で実家も半壊扱いとなり、神戸に戻る。高校時代の先輩が開業した何でも屋で、仮設住宅の設備交換や工務店の手伝いをして過ごす。
1995年、日活芸術学院の同期生であり、先に助監督としてピンク映画を中心に活動していた加藤義一の誘いで関根和美監督『きっと会える』にセカンド助監督としてつく。
以降、同監督の作品の助監督を務めながら、共同で脚本を書き始める。
1997年オーピー映画『女医 わいせつ逆療法(シナリオタイトル 「ストーカー」)』が劇場公開、単独名義デビューを果たす。
以降、精力的に作品を書き続けていたが、雑誌「TOO NEGATIVE」に執筆参加したのを機に、活動の場を紙媒体に移す。
あくまでも時給換算の編集長として、月に最低4、5冊以上のエロ本を作り、「月産1000ページの男」とも呼ばれる。
題材がいわゆる洋ピンものだったせいか、売れた覚えは「全くない」らしい。
その後、再び脚本を書き始め、2004年からは竹洞哲也監督の全作品を手がける。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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