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小松彰太郎 : ウィキペディア日本語版
小松彰[こまつ あきら]

小松 彰(こまつ あきら〔上條。〕、1842年4月19日天保13年3月9日) - 1888年明治21年)3月25日)は明治時代日本実業家官僚。旧松本藩士久美浜県権知事生野県権知事豊岡県令東京株式取引所頭取を歴任した。通称彰太郎左右輔は雪巌〔「官吏進退・明治二十一年官吏進退二十三」。松本尋常高等小学校。〕。
== 来歴 ==
天保13年3月9日1842年4月19日)、信濃国筑摩郡松本城下に松本藩医小松維貫(通称・齢司、坪井信道門弟)の子として生まれる。幼名は金八。藩学崇教館に学んだのち、安政5年(1858年)から藩命で江戸に遊学。塩谷宕陰の教えを受け、文久元年(1861年)には陽明学を学ぶため古賀謹堂に入門したが、父・維貫が江戸に赴任した文久2年(1862年)、家事を掌るべく帰国した。なお江戸では長岡藩河井継之助の薫陶を受けており、以後親交を深めることになる。文久3年(1863年)11月、松代藩佐久間象山の門に入り、翌元治元年(1864年)3月には幕命により京都にのぼる師に従ったが、象山は7月、禁門の変直前に暗殺された〔坪谷、150-157頁 。〕。
その後小松は江戸に赴き、藩主松平光則に建策を行ったところ、禁門の変後の情況視察を命じられ翌慶応元年(1865年)1月に再び上京。正親町三条家に寄寓しながら各藩の周旋方と交際し、松本藩周旋方と目されるに至った。3月、情勢を報じるため老中小笠原長行配下の唐津藩大野又七郎をともなって帰国。さらに江戸にも出向いている。7月、第二次長州征討のため藩主が宿営する浪華に入って形勢観察に当たり、次いで芸州地方探偵を命を受け三度広島に渡ったのち、翌年9月に京都に戻った。慶応3年(1867年)3月、松本に帰国すると出府を命じられ、藩財政逼迫のため当年予定されていた参勤の期間軽減を求めて老中板倉勝静、小笠原長行らと交渉。一期の猶予が認められた。大政奉還後の同年12月には、江戸滞在中の河井継之助と謀って上京。河井は主君牧野忠訓とともに朝廷を諫める建白を行ったが用いられず京を離れ、小松も戊辰戦争勃発後の翌年2月に帰国している。松本に帰ると士籍小納戸格に列せられ、さらに藩から新政府に出仕する貢士に抜擢。ただちに京都に戻ったものの、ほどなく貢士に代わって公議人が置かれると解任となった〔坪谷、157-163頁 。〕。
明治2年(1869年)1月、新政府より倉敷県権判事を命じられたが赴任しないまま8月に免職。次いで新都東京への上京を命じられ、10月に大学少丞に就任〔坪谷、164-165頁 。〕。別当松平慶永のもと、少丞楠田英世らとともに「大学規則」の立案に尽力し、規則が成立した明治3年(1870年)2月には大学大丞に進んだ。しかし、この学制改革は教官および生徒の反発を受け、学内は混乱。7月に至り別当以下が免職となり、大学本校は閉鎖された〔大久保利謙著 『大久保利謙歴史著作集 4 明治維新と教育』 吉川弘文館、1987年10月、ISBN 4-642-03594-X、336-344頁。熊澤恵里子著 『幕末維新期における教育の近代化に関する研究 : 近代学校の生成過程』 風間書房、2007年6月、ISBN 978-4-7599-1636-2、443-448頁。坪谷、165-166頁 。〕。その後小松は12月に久美浜県権知事生野県権知事に任命され、翌明治4年(1871年)2月に久美浜に赴任〔坪谷、166頁 。〕。10月に播但農民一揆が起こると鎮圧に当たった〔兵庫県史編集専門委員会編 『兵庫県史 第5巻』 兵庫県、1980年3月、941、953頁。坪谷、167-168頁 。〕。同年11月、第1次府県統合により久美浜生野ほか諸県を廃して成立した豊岡県の権令となり、明治5年(1872年)3月には県令に進んだが、中央官界への復帰を望んで7月に上京〔坪谷、166頁 168頁 。〕。10月に正院の大外史に転じ、歴史課長を務めた〔168頁 東京大学史料編纂所編 『東京大学史料編纂所史史料集』 東京大学史料編纂所、2001年11月、363頁。〕。翌明治6年(1873年)5月、権大内史に進み、新設された法制課の課長に就任。明法頭楠田英世が法制課長兼務となった7月以降は副課長を務めた〔藤田正 「明治六年の太政官制潤飾と内史官」(大濱徹也編 『国民国家の構図』 雄山閣出版、2009年11月、ISBN 4-639-01652-2)111-113頁。〕。同年11月には内務省新設の趣旨伝達と民情視察のため三陸六県に派遣されている〔小池ウルスラ 「太政官制下の地方監察 : 明治6年11、12月の地方巡廻」(日本歴史学会編 『日本歴史』第561号、1995年2月、)77-78頁。坪谷、169-170頁 。〕。法制課が左院に移管された明治7年(1874年)2月、左院の二等議官に転任となり、さらに同月、文部大丞に異動〔西川誠 「左院における公文書処理 : 左院の機能に関する一考察」(『日本歴史』第528号、1992年5月、)74、80頁。『太政官日誌』明治7年第17号、4頁 同誌明治7年第27号、3頁 。〕。文部省四等出仕を経て文部大丞に再任されたのち、明治9年(1876年)9月に退官した。文部省内では明治7年2月に学務局長、4月に督学事務取扱となり、同年9月以降は会計課長を務めた〔『東京経済雑誌』第412号。〕。なお明治9年1月には、盲教育施設設立をめざして古川正雄らが前年に組織した楽善会に参加し〔中野善達、加藤康昭共著 『わが国特殊教育の成立』 東峰書房、1991年2月改訂新版、ISBN 4-88592-015-9、227頁。〕、以後訓盲院開設に尽力している。
退官後は実業界に転じ、明治11年(1878年)1月に東京株式取引所設立に参画。初代頭取に選出された。翌年1月、渋沢喜作が頭取に選ばれると肝煎となり、明治13年(1880年)7月に肝煎を辞任したのち、明治14年(1881年)1月に再び頭取に選出。以後再選を重ねた〔東京株式取引所編 『東京株式取引所五十年史』 東京株式取引所、1928年10月、245-247頁。坪谷、170-171頁 。〕。しかし明治19年(1886年)、取引所が所有していた金禄公債証書の売却益をめぐって株主と対立。同年10月の臨時総会河野敏鎌が頭取に選出され、退任に追い込まれた〔石井裕晶著 『中野武営と商業会議所 : もうひとつの近代日本政治経済史』 ミュージアム図書、2004年5月、ISBN 4-944113-55-2、264-265頁。〕。このほか、明治15年(1882年)に壬午銀行の設立に参加〔坪谷、171頁 。〕。明治19年11月には両毛鉄道発起人となり、翌明治20年(1887年)年3月、取締役に選出されている〔石井里枝著 『戦前期日本の地方企業 : 地域における産業化と近代経営』 日本経済評論社、2013年2月、ISBN 978-4-8188-2248-1、30-31頁。『東京経済雑誌』第412号。〕。さらに同年11月、東京米商会所頭取に就任したが、翌月に持病の肺患を再発。明治21年(1888年3月25日東京飯田町の自邸で死去し、染井墓地に葬られた。享年47〔坪谷、171-172頁 。〕。没後、郷里の松本神道(四柱神社)境内に顕彰碑が建設された〔松本尋常高等小学校。〕。
小松の兄弟は二兄二姉が夭折しており、父・維貫没後は義弟の維直、弟の精一、妹二人が残った〔坪谷、154頁 163頁 。〕。婿養子の維直は佐藤舜海に学んで医業を継ぎ、精一は官吏、長女は維直夫人、次女は医師原桂仙夫人となった〔星新一著 『祖父・小金井良精の記』 河出書房新社、1974年2月、71-72頁。〕。小松の正妻には子がなかった。権妻との間に一男一女があったが男子は夭折したため、維直の次男春三を婿養子に迎えている〔大植。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小松彰」の詳細全文を読む



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