|
小松 辰雄(こまつ たつお、1959年5月10日 - )は、石川県羽咋郡富来町(現:志賀町)出身の元プロ野球選手(投手)。 現役時代は中日ドラゴンズで活躍した。現在は、CBCテレビ・CBCラジオの解説者。 == 来歴 == 小学生当時より強肩ぶりを発揮し、町内の小学生が集まり記録を競う「陸上競技記録会」のソフトボール遠投にて70mを超える記録を残す。 の夏の甲子園で石川・星稜高等学校の2年生エースとして準決勝まで進出、その年の優勝校である西東京代表の桜美林高校に敗退したものの、その剛速球は注目されることとなった。 3年生となった翌の夏の甲子園では、1回戦で奈良・智弁学園の山口哲治と壮絶な投手戦を繰り広げるが、序盤に制球を乱して喫した2失点が響き、1対2で敗退した。同年のドラフト会議で中日ドラゴンズから2位指名を受けて入団(1位指名は入団が秋まで遅れ、に新人王となった藤沢公也)。 この年の高校球界には、小松や山口の他にも夏の甲子園で優勝した兵庫・東洋大姫路高校の松本正志、福島県予選を無失点で制した福島商業高校の三浦広之、春の覇者、箕島高校を予選で破った和歌山・田辺高校の木下透と才能あふれる投手が数多く高卒でプロ球界に入団したが、長く活躍できたのは小松だけである。 1979年にリリーフとして一軍に定着し、5月には月間MVPを獲得。に先発転向し、前年から174試合連続得点を続けていた読売ジャイアンツを相手にプロ入り初の完封勝利を挙げた。 は近藤貞雄が監督のもと、リーグ優勝の胴上げ投手に。なお、この年は開幕投手を務めながらその試合で故障。復帰後、入れ替わりに故障して二軍落ちした牛島和彦に代わって抑えを務め、開幕戦以来の先発登板が最終戦だった。 は最多勝、最優秀防御率、最優秀投手、沢村賞の投手タイトルを総なめ。には自身2度目の最多勝を獲得、には12勝を挙げて6年ぶりのリーグ優勝に貢献。 は0勝に終わり、以降も2桁勝利を挙げることはできず、に現役引退。引退試合は1995年3月26日、ナゴヤ球場でのオープン戦で行われ、5回に登板。最後に対戦した打者は、少年時代に小松に強く憧れていたイチローだった。 引退後、は中日の二軍投手コーチ、からまで一軍投手コーチを務めたが1997年はチーム防御率5位と低迷し最下位転落の原因となり、同年オフに宮田征典を一軍投手コーチに招聘したのと入れ替えに解任される。当時監督だった星野仙一は著書の中で「現役陣と年が近すぎたせいか、選手との仲間意識を捨てきれない。時には情を捨て、厳しさを前面に出すことが必要なのだ。ところが小松は兄貴からコーチへ変わって行けなかった。中日OBにもコーチとしてのチャンスを与えたかった。しかし、二年経っても、小松コーチに著しい進歩がない以上、もう一度コーチングスタッフの体制を見直さなければならないと考えてのことだった」〔星野仙一著、ハードプレイ・ハード 勝利への道、2000年、文藝春秋、P62〕と記している。からはCBCテレビ・CBCラジオの野球解説者および中日スポーツ評論家となり、現在に至る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小松辰雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|