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小林ハル : ウィキペディア日本語版
小林ハル[こばやし はる]

小林 ハル(こばやし ハル、1900年明治33年)1月24日 - 2005年平成17年)4月25日)は、日本瞽女。生後3か月で失明し、5歳の時に瞽女修行を開始。数多くの苦難を経て晩年に「最後の長岡瞽女」〔下重2003、270頁。〕、「最後の瞽女」〔山折2006、175頁。〕として脚光を浴びた。8歳で初めて巡業に出て以降、1973年昭和48年)に廃業するまでの間、西頸城郡を除く新潟県全域と山形県の米沢・小国地方、福島県南会津地方を巡った〔佐久間1983、125頁。〕。1978年(昭和53年)「瞽女唄」が「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択され、その保持者として認定される。1979年(昭和54年)、黄綬褒章を授与される。選択無形文化財の保持者に認定されたことをもって人間国宝と呼ばれることもある〔本間2001、11頁。〕。
== 生涯 ==

=== 誕生 ===
小林ハルは1900年(明治33年)1月24日新潟県南蒲原郡井栗村〔『小林ハル光を求めた一〇五歳 最後の瞽女』によると旭村。当時村は26世帯の小村であった(小林・川野2005、16頁。)。〕三貫地(現在の三条市三貫地新田〔小林・川野2005、217頁。〕)に4人兄弟の末子として生まれた〔下重2003、33-35頁。〕〔小林・川野2005、16頁。〕。ハルの生家は庄屋の格式を有し小作人をもつ農家で、使用人もおり〔暮らし向きはよかった〔下重2003、35頁。〕。生後3か月の時に白内障を患い、両目の視力を失う〔小林・川野2005、16-17頁。〕〔はじめのうちは「人の姿がちっと分かる時があ」る程度の視力が残されていたが、11歳の時に眼の激しい痛みに襲われ、完全に視力を失っていった。(桐生2000、82頁。)。〕。医者には「治る見込みはない」と告げられた〔下重2003、81頁。〕。1902年(明治35年)、父親が死去。母親も喘息の持病を抱えており、ハルは同居する大叔父(祖父の弟)〔大叔父は「孫爺さま」と呼ばれ、一帯の区長を務める人物であった(下重2003、35頁。)。〕に養育された〔。
家族は盲目の子が生まれたことで村人から偏見の眼差しを向けられることを恐れ〔小林・川野2005、17-18頁。〕、「人に見られてはいけない」とハルを常に屋敷の奥にある寝間に置いた〔〔本間2001、17頁。〕。家族はハルに「呼ばれなかったら声を出すのではないぞ」と言い聞かせた〔小林・川野2005、17-18頁。〕。食事はすべて寝間で食べさせられ〔下重2003、36頁。〕〔本間2001、17-19頁。〕、「手洗いが近くなるから」という理由で水分をとることも制限された〔本間2001、19頁。〕。ハルは家族から「お前は人の世話になっているのだから、満足なご飯なんて食べさせていられない。だが、そのために病になってしまったら、近所の手前が悪い」と言われたという〔本間2001、37-38頁。〕。
盲目であることが分かってから、家族はハルを名前で呼ばなくなった。そのため、ハルは自身の名をあまり好きにはなれなかった〔本間2001、24頁。〕。大叔母(大叔父の妻)はハルを「盲っ子」「トチ」(盲人を指す「トチ盲」の省略語)と呼んだ〔本間2001、24-27頁。〕。16歳年上の兄はハルによく暴力をふるったが、家族は「お前はこの家で一生、兄さの世話にならなければならないのだ」、「お前がいるせいで、兄は年頃なのに、嫁のなり手がなかなか見つからない。兄さに辛くあたられたって、仕方のないことだ」と兄が咎められることはなかった〔本間2001、31頁。〕。ハルは「お前には誕生日はないんだ」と言われ、兄弟と違って誕生日を祝われることもなかった〔本間2001、37頁。〕。ハルは晩年、老人ホームに入所するまで、自身の名前からおそらく春生まれだろうは感じていたものの、正確な誕生日を知らずにいた〔本間2001、216-217頁。〕。
占い師にみせたところ「この子は長生きする」と言われ、家族はハルの将来の生計を案じるようになる〔下重2003、37頁。〕。当時、視覚障害者が生計を立てるための手段は按摩三味線などごく限られていた〔小林・川野2005、18頁。〕。大叔父はハルを隣村の鍼医に弟子入りさせようとしたが、挨拶に出向いた際に酒に酔った鍼医が「しっかり勉強しないと、鍼を突き刺すぞ」と大声で脅したのをハルが怖がったため、話は立ち消えとなった〔小林・川野2005、18-19頁。〕。家族は鍼医が駄目なのであれば瞽女にしようと考えるようになった。村を訪れる瞽女の中にはハルを弟子にしたいと申し出る者もおり、三条を拠点に活動する樋口フジへの弟子入りが決まった〔小林・川野2005、19-20頁。〕。
樋口フジから「最初の稽古が始まるまでに、何でも一人で、できるようにしておくように」と言われた〔本間2001、49頁。〕母親は、ハルに礼儀作法や編み物、縫い物などを教えた〔小林・川野2005、21-22頁。〕〔下重2003、40-42頁。〕。母親は「優しくしていたら、ロクなものにはならねェ」〔下重2003、39頁。〕、「おらはいつまでも生きられねェ。なんでも覚えねば、あの時覚えておけばいかったといっても、二度と教えられねェ。だから今覚えねばだめだ」〔下重2003、91頁。〕と言い、ハルに厳しく接した〔。縫い物の練習で針に糸が通せないと食事を与えられず、通せると食べたい物を食べることができた〔下重2003、40-41頁。〕。母親はさらに巡業に出る日に備え、着物の着方や風呂敷を使った荷造りの仕方、荷物の持ち運び方などを教えた〔小林・川野2005、31頁。〕。
下重暁子は、母親には「病弱の自分がいつまで面倒を見られるか分からない。なんとか…一人前になってもらいたい。目のみえる女と同じように、いやそれ以上に自分で自分のことができる女に育てねば」という思いがあったのだと推測する〔。ハルは躾の厳しい母親を憎み〔小林・川野2005、45頁。〕〔桐生2000、52頁。〕、実の母親ではなく継母だと思うこともあった〔本間2001、105-106・157頁。〕が、巡業をするようになってからは母親のお蔭で瞽女を続けられるのだと感謝するようになった〔〔。後に弟子をとるようになると、「本当の親だからこそ、愛情があるからこそ、母は厳しくしつけたのだ」と納得するようになり、弟子を指導する際に母親のことを思い出して涙ぐむこともあったという〔本間2001、157-158頁。〕。母親は1910年(明治43年)11月、喘息を悪化させ病死した〔小林・川野2005、86頁。〕。母親はハルを枕元に呼び、じっと見た後、息を引き取ったという〔下重2003、88-89頁。〕。大叔母は目の見えないハルが代わりに死ねばよかったとハルを責めた〔桐生2000、112頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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