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小森龍邦 : ウィキペディア日本語版
小森龍邦[こもり たつくに]

小森 龍邦こもり たつくに1932年7月30日 - )は、日本の部落解放運動家、政治家部落解放同盟広島県連合会委員長、同中央本部書記長、衆議院議員新社会党中央執行委員長などを歴任し、解放同盟広島県連顧問。
== 来歴・人物 ==

=== 部落解放運動家として ===
広島県府中市出身。1951年広島県立府中高等学校卒。1961年、広島県青年連合会会長となる。
1962年日本社会党に入党。部落解放同盟の専従活動家として頭角を現し、1960年代後半に表面化した解放同盟分裂に際しては、日本共産党主導の広島県連に対抗して中央本部につながる広島県連再建に尽力し、県連委員長に就任、福山市三原市など県東部を中心に組織拡大に成功、広島市内の組織をほぼ維持するにとどまった従前県連を圧倒した。
その功績によって中央レベルの発言権を強め、中央執行委員を経て、1982年、中央本部書記長に就任、事実上の最高権力者として解放同盟を指導、1984年の新綱領制定にも主導的役割を果たした。
小森の書記長在職が長期になる間に、解放同盟内部においても運動方針に関する意見の相違が生じた。また、1993年細川護煕連立政権樹立に象徴される政界再編の流れについて、小森は保守系勢力との連立のため党方針を右傾化させる社会党執行部を批判し、上杉佐一郎委員長など他の解放同盟幹部と衝突した。1994年に政治改革法案に反対し、社会党支持の組織方針に背いた責任を取るとして中央本部書記長の辞表を提出、受理された。事実上は他の幹部による解任だったともいわれる〔『創』1995年2月号「匿名座談会 部落解放同盟のマスコミが書けなかった内部事情」p.115〕。同じ社会党の衆議院議員だった上田卓三や、大阪府連の実力者であった大賀正行とは敵対関係にあったことも知られている。書記長の辞表提出時には、慰留される段取りのはずだったのに、即座に受理されたことを小森は悔しがり、「大賀にやられた」と叫んだとの裏話も伝わった〔『創』1995年2月号「匿名座談会 部落解放同盟のマスコミが書けなかった内部事情」p.116〕。
中央本部書記長辞任後も、広島県連に対する影響力を保っている。84年綱領に代わる97年制定の解放同盟現行綱領に関しては、マルクス主義色を一掃した内容について強い批判を表明したり、広島県連が中央の決議機関を一時的にボイコットしたことがあるなど、小森自身も広島県連も、中央本部とは距離を置くスタンスを取り続けている。
また、一部の部落民が部落外に転出して出世するや否や自己の生まれを隠蔽し始める風潮があることを苦々しく思い、「宮澤喜一の父親(宮澤裕)は被差別階級の出だ」と発言し、宮澤から怒りを買ったことがある。
なお、1973年には、戸手商業高校(現・戸手高等学校)で暴力糾弾事件を起こしたとして、暴行傷害罪で罰金刑を受けたことがある(戸手商業高校事件)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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