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小澤 公平(おざわ こうへい、 1943年8月4日 - )は、東京都出身の俳優、小説家、脚本家、作詞家、作曲家である。 実父は脚本家、劇作家、小説家、作詞家で著名な小沢不二夫、実母はムーランルージュ新宿座に所属していた女優の市川弥生(1922年3月 - 2008年5月5日)、実妹は歌手、声優の水沢有美、実弟は元サンテックジャパン社長の小澤夢生(1958年4月6日 - )。 == 来歴・人物 == 両親がムーランルージュ新宿座所属の劇作家や女優として活躍していたため、小澤自身も幼い頃からバレエや稽古に通わされていたが、本人は野球選手になるのが夢だったため野球の練習に明け暮れており稽古事は好きではなかったと言う。しかし1958年、中学3年生だった15歳の時に肘を壊してしまい、野球選手への夢を断念した事がきっかけとなってラジオ俳優としてデビューし芸能界入りを果たす。その後東映テレビや東宝演劇部と契約して先輩俳優の森繁久彌などに付いて演技を学びながらNHKの大河ドラマ『竜馬がゆく』等、220本を超す様々な映画やテレビドラマ、舞台などで俳優として活躍する傍ら、モダンバレーの教師なども行っていた。父親が著名な脚本家、劇作家だったため、デビューから数年間は父親が脚本を書いたドラマや舞台劇の出演が多かった。 俳優時代は台本を完璧に覚えるのではなく、台本に目を通してある程度セリフを覚えた上で身体を使った表現力やアドリブを多用するスタンスをとっていたと言う。本人も「セリフは台本を読むのではない。五感を使って相手が何をいおうとしているのかキャッチする。それが体の中に入ってきて、自分のセリフが出てくる」、「演技は真心がなければできない。真心が自然に出てくるようになれば、もう教えることはだいたい教えたと言うことになる」、「だれでも真心はあるのに、それを表現する演技を身につけていない。それを教える。同時に考えさせる。セリフを忘れたときにどうアドリブを出していくかが大切だ。それを考えさせる」と後に語っている。 1979年に東宝演劇部を退社した後も俳優業を続け、1981年に俳優業を引退。引退後は沖縄県に移住し、劇作家や脚本家として活動を開始する。 沖縄県移住後は主に沖縄テレビ放送や琉球放送など県内ローカル放送のドラマや県内公開の舞台、演劇、芝居などの脚本や小説を執筆する傍ら、1983年にマキノ正幸が設立した沖縄アクターズスクールの立ち上げに協力した。その後、1984年に沖縄タレントアカデミーを設立して歌手の安室奈美恵の発掘に関わり、これまでに女優の仲間由紀恵や歌手の亜波根綾乃など様々な歌手や俳優を育て上げ、現在も校長として若手の育成に力を注いでいる。宜野湾市、具志川市の市民劇制作並びに、宜野湾市教育委員会主催の宜野湾ライブの業務委託も行っている。 脚本、演出家としては1979年にCMの企画に携わって以来、2015年現在までに2500本以上の作品の脚本や演出などを手掛けているほか、俳優や脚本演出家としての経験のノウハウを広げるための講演会や講習会も積極的に行っている。2005年からは沖縄全日空ホテルズのラグナガーデンホテルでホテルマンや従業員を対象にした俳優養成講座を定期的に行い、教師として俳優時代の経験で活かしたノウハウを従業員に教え、ホテルの接客サービス向上に努めている〔ラグナガーデン ホテルマンに俳優養成講座 ■講師に小澤氏 演技修得し、好感度上がる - 沖縄観光ニュース第701号(2006年6月1日)〕。 俳優業は長らく引退状態であったが、沖縄県移住後も散発的ながらNHKや琉球放送などのテレビやラジオの番組にゲストとして出演したり、沖縄芝居や舞台に出演して舞台俳優として活躍していた。その後、2011年公開の映画「ムーランルージュの青春」に出演した事をきっかけに本格的に俳優業を再開した。最近では2015年公開の映画「残波」に瀬名波役で出演している。 また、現在も本人を含めた沖縄タレントアカデミーのメンバーで両親が活躍したムーランルージュ新宿座を再現する事や、本場フランスのムーラン・ルージュに出演する事を目標にしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小澤公平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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