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小河一敏[おごう かずとし]
小河 一敏(おごう かずとし、文化10年1月21日(1813年2月21日) - 明治19年(1886年)1月31日)は、堺県知事、宮内省御用掛。通称は弥右衛門。 == 経歴 == 岡藩士の子として、豊後国竹田に生まれた。朱子学・陽明学を学び、また詩歌や文章も善くした。藩論が尊王派と佐幕派に分かれ対立すると、尊王派の指導者として活動し、薩摩藩と結んで倒幕を画策したが1862年(文久2年)の寺田屋事件で挫折した。帰藩後幽閉され、一度は許されたものの、1865年(慶応元年)に幕府をはばかった藩主中川久昭により再び幽閉された。 新政府が成立後の1868年(慶応4年)4月、解放されて太政官に出仕し、参与・内国事務局判事となり、大阪府判事、堺県知事に転じた。堺県知事として養蚕業を導入して殖産興業に努めた。しかし1870年(明治3年)、氾濫で決壊した大和川の堤防の修築費用を、独断で発行した県札であてたことがとがめられ、免官となった。和泉・河内の民衆は記念碑を建てて、その功績をたたえた。 その後、宮内大丞に任ぜられたが、翌1871年(明治4年)に免官となった。1875年(明治8年)より修史局、修史局廃止後は修史館で史料の編纂にあたった。1877年(明治10年)に宮内省権少書記官に、1881年(明治14年)には宮内省御用掛に任ぜられた。 墓所は豊島区駒込の染井霊園。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小河一敏」の詳細全文を読む
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