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小沼 正(おぬま しょう、1911年〈明治44年〉12月29日 - 1978年〈昭和53年〉1月17日)は、昭和時代の日本の国家主義者・テロリスト・業界公論社社長。別名は広晃。血盟団メンバー。 == 来歴 == 茨城県那珂郡平磯町出身。明治以降の中堅階層を代表する家庭で生まれた。教育勅語そのままの家庭で少年時代を過ごして成長したが、実家の事業が失敗。再起を決して上京したが、貧困から這い上がろうとしても、独占営業者の専横や警察署の腐敗を身にしみ、そうした中で悪戦苦闘していた。さらに昭和恐慌で最終的に家族離散となった。 重なる挫折を味わっていた1930年(昭和5年)に井上日召を知り、血盟団に加わった。立正護国堂に入り、日蓮信仰と国家革新の思想を学んだが、やがて井上日召の家父長的カリスマの影響下に捨て石的革命運動に没入。絶望的な反抗心を育み、テロリズムに到達していった。 1932年(昭和7年)2月9日に総選挙の応援演説のため、東京・本郷の駒本小学校を訪れた前大蔵大臣の井上準之助が校門にさしかかった時に、小沼は背後から銃弾3発を撃ち込んだ。井上準之助は第1弾を右胸部、第2弾を左腰部、第3弾を脊椎に撃たれて絶命した(血盟団事件)。 逮捕された小沼は「旧正月帰郷した時、百姓の窮乏見るに忍びず、これは前蔵相のやり方が悪かったから殺意を生じた」、「日本国民党の寺田稲次郎の家に住んでいた」と自供。寺田は小沼の印象を「牛のような男」と語っている。小沼は井上準之助襲撃の前日は玉の井で散財していた。ピストルは伊東亀城少尉から盗んだものとされたが、後に井上日召より渡されたものとなっている。 1934年(昭和9年)11月22日に無期懲役となったが、1940年(昭和15年)に恩赦で仮出所。1949年(昭和24年)業界公論社社長を務める傍ら右翼活動を続け、『一殺多生』も著わす。1978年(昭和53年)1月17日に死去。満歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小沼正」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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