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小澤治三郎 : ウィキペディア日本語版
小沢治三郎[おざわ じさぶろう]

小沢 治三郎(おざわ じさぶろう、1886年明治19年)10月2日 - 1966年昭和41年)11月9日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将海軍兵学校37期生。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。
== 生涯 ==
1886年明治19年)宮崎県児湯郡高鍋町で元高鍋藩士の父・小沢寅太郎と母・ヤツの次男として生まれる。宮崎中学(現・県立宮崎大宮高校)に在学中、不良青年と争いになり柔道の投げ技で撃退したが、暴力沙汰として退学処分となる。陸軍軍人だった兄・宇一郎の上官・牛島貞雄から日露戦争の戦場満州より「過ちを改むるに憚ること勿れ」(論語 学而第一 8からの引用)の手紙を送られた事をきっかけに上京し、1905年成城中学校へ転入した。小沢はこの手紙を終生大切に保管し、またその言葉を座右の銘とした〔吉田俊雄『エクセレント・リーダーズ 日本海軍四人の名指導者』光人社140-141頁〕。小沢は東京でも喧嘩沙汰を起こし、下駄で踏みつけ相手は降参したが、その相手は後の柔道家・三船久蔵であった〔#提督小沢治三郎伝2頁〕。
1906年(明治39年)3月、成城中学校を卒業、従兄の勧めで鹿児島県の第七高等学校と江田島の海軍兵学校を受験する。4月、第七高等学校に進学したが、海軍兵学校に合格したため退学する。11月24日、海軍兵学校37期生に入学する。小沢は海兵に合格しなければそのまま大学まで進んで造船官になるつもりだったという〔#提督小沢治三郎伝6頁〕。同期の井上成美によれば、小沢は入学時の成績は183人中150番位だったが、よく勉強して卒業時には40番位にまで前進していたという〔#提督小沢治三郎伝141頁〕。ゴツイ面相から同期から「鬼瓦」とあだ名をつけられた〔阿川弘之『連合艦隊の名リーダーたち』プレジデント社79頁〕。1909年(明治42年)11月、海軍兵学校37期を179人中45番の成績で卒業。少尉候補生として二等巡洋艦「宗谷」に乗組。艦長は鈴木貫太郎、候補生の指導官に山本五十六がいた。1910年(明治43年)1月、外国への遠洋航海に出るため、小沢ら宗谷の候補生は皇居にて明治天皇に拝謁する〔#提督小沢治三郎伝7頁〕。12月15日、少尉に任官した。装甲巡洋艦「春日」乗組。
1912年(明治45年)4月、砲術学校普科学生。1912年(大正元年)8月、水雷学校普通科学生。12月、海軍中尉。駆逐艦「」乗組。1913年(大正2年)12月、戦艦「比叡」乗組。1915年(大正4年)2月、横須賀海兵団付。12月、海軍大尉。戦艦「河内」分隊長。1916年(大正5年)12月、海軍大学校乙種学生。1917年(大正6年)5月、海軍水雷学校高等科学生。8月、同郷の旧高鍋藩士の四女の石蕗と結婚し鎌倉に家庭を持った。他にも良縁と思われる話があったが、一本の箸を立てその倒れた方向で蕗に決めた〔#提督小沢治三郎伝14頁〕。12月、水雷艇「」艇長。
1918年(大正7年)5月、水雷艇「白鷹」艇長。9月10日付で地中海で第一次世界大戦作戦中の第二特務艦隊司令部附を命ぜられ、9月19日に輸送船春日丸に便乗して任地に向かい、11月1日に第二特務艦隊所属の駆逐艦「」に乗組。11月23日ポートサイドに着いた〔#提督小沢治三郎伝17頁〕。しかし11月11日に休戦が決まったため翌年7月まで休戦中の連合国軍輸送船団の護衛任務などに従事した。
1919年(大正8年)12月1日、海軍大学校甲種学生。1921年(大正10年)11月30日、海軍大学校卒業。12月、任海軍少佐。駆逐艦「」艦長。1922年(大正11年)12月、馬公要港部参謀。1924年(大正13年)8月、駆逐艦「島風」艦長。1925年(大正14年)1月、「第三号駆逐艦」艦長。11月、戦艦「金剛」水雷長。1926年5月(大正14年)、連合艦隊参謀。12月、任海軍中佐。第1水雷戦隊参謀。1927年(昭和2年)12月、海軍水雷学校兼海軍砲術学校教官。1929年(昭和4年)12月、軍令部出仕。
1930年(昭和5年)2月から11月にかけて欧米に出張した。ドイツ、イギリスで第一次世界大戦のユトランド沖海戦の参戦者を訪問し薄暮戦、夜戦について実情を聞き、これをまとめて報告した。この成果としてイギリス海軍主力艦の偏弾射撃訓練法が日本海軍に導入された〔#提督小沢治三郎伝18-24頁〕。12月、任海軍大佐。第1駆逐隊司令。1931年(昭和6年)1月、第4駆逐隊司令。4月、横須賀鎮守府付。10月、第11駆逐隊司令。12月、海軍大学校教官。戦術科長の小沢の授業は「固着した海戦要務令に捉われず、独創的斬新な戦法研究」を重視したものであった〔#提督小沢治三郎伝24-27頁〕。ロンドン海軍軍縮条約以降、夜戦の議論が活発化し、夜戦部隊推進のために主力の援護が必要だが、かえって混乱を招く危険もあり、小沢を中心に研究を進められていた〔戦史叢書31海軍軍戦備(1)昭和十六年十一月まで198頁〕。小沢は全軍夜戦思想を力説した。薄暮に全艦隊戦闘し、夜戦部隊の接敵確保して夜襲し、翌朝の艦隊決戦で制勝する構想であった〔#提督小沢治三郎伝118-119頁〕。小沢は軍機図書について質問されると「諸君は大学在学中そんな本は一切読むな」と型より独創性を説いた〔#提督小沢治三郎伝116頁〕。
1934年(昭和9年)11月15日、重巡「摩耶」艦長。1935年(昭和10年)10月28日戦艦「榛名」艦長。1936年(昭和11年)12月1日、海軍少将。海軍大学校教官。1937年昭和12年)2月18日、連合艦隊参謀長兼第1艦隊参謀長。7月、支那事変(日中戦争)開始。事変において第三艦隊の協力などの訓練が思うようにいかず、小沢の構想で連合艦隊の戦策訓練に画期的具体策を提案した。艦隊戦策を具体性豊かなものに改定し各級指揮官の迷いを払い、先制集中の実を獲得するアウトレンジ、母艦を分属させず一丸とし航空艦隊を編成し一指揮官のもとに統率、演練し集団的威力を発揮させるという内容であった。しかし海大の図上演習では賛同者はいなかった〔#提督小沢治三郎伝28-29頁〕。11月15日、第8戦隊司令官。1938年(昭和13年)11月、水雷学校長。
1939年(昭和14年)11月15日、第一航空戦隊司令官。1940年(昭和15年)3月、昼間雷撃演習で空母機と陸上機の混成部隊を統一指揮して協同攻撃を行い成功させた。旗艦「長門」で見ていた山本五十六は「飛行機でハワイをたたけないものか」と発言している〔#海軍参謀199 - 202頁〕。
6月9日、「航空艦隊編成に関する意見書」を海軍大臣に提出。内容は、全航空部隊は建制において統一指揮下に集め、最高指揮官は練度を詳知し不ぞろいのないように計画指導し、統一指揮のため通信網を整備し、慣熟訓練する。そのために訓練も1つの指揮下に航空戦力を集めるべきである。研究の必要がある項目として、接敵期における母艦配備と事後の母艦運用の方法、各航空部隊の索敵、攻撃の分担、基地部隊と母艦部隊の協同方法を上げた。この意見書にある航空戦力を一つの指揮下にまとめる構想は翌年4月10日に第一航空艦隊で実現した〔#提督小沢治三郎伝41頁〕。飛行隊長淵田美津雄によれば小沢の下で母艦の統一指揮と搭載機の集団攻撃を研究し、それを小沢が母艦は一つの指揮権にまとめるべきという意見書として提出したという。また空母の集中配備も検討したが当時第一航空戦隊には空母は一隻しかなかったため結論には至らなかったという〔提督小沢治三郎伝刊行会『提督小沢治三郎伝』原書房230-231、中田整一編『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社84-85頁〕。
11月1日、第三戦隊司令官。11月15日、任海軍中将

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小沢治三郎」の詳細全文を読む



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