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小田切 延寿(おだぎり えんじゅ、1874年〈明治7年〉 - 1943年〈昭和18年〉10月1日)、海軍機関大佐。昭和鋼管役員。 == 経歴 == * 1874年(明治7年) - 旧米沢藩士・小田切盛徳の三男として生まれる。 * 1894年(明治27年) - 海軍機関学校(1期〔『遠い潮騒』pp101-102〕)卒業。席次は首席〔秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会)〕。 * 1895年(明治28年) * 11月18日 - 吉野乗組を免し高雄乗組を命ず〔『官報』第3719号「叙任及辞令」1895年11月19日。〕。 * 12月27日 - 任 海軍少機関士〔『官報』号外「叙任及辞令」1895年12月29日。〕 * 1897年(明治30年)7月 - イギリス留学 * 1898年(明治31年)4月1日 - 学資年額三千三百円給 * 1900年(明治33年)5月 - 「出雲」分隊長として回航、帰国。 *8月1日 - 任 「出雲 (装甲巡洋艦)」分隊長〔『官報』第5125号「叙任及辞令」1900年8月2日。〕 * 1901年(明治34年)2月7日 - 兼補 海軍技術会議議員〔『官報』第5278号「叙任及辞令」1901年2月8日。〕 * 海軍大学校教官 兼 艦政本部部員 * 1902年(明治35年)10月6日 – 免本職並兼職、補 橋立分隊長〔『官報』第5779号「叙任及辞令」1902年10月7日。〕 * 1907年(明治40年)7月8日 - 休職〔『官報』第7207号「叙任及辞令」1907年7月9日。〕 * 1917年(大正6年)2月 - 予備役 海軍在職中海軍大学校教官兼海軍教育本部部員、佐世保海軍工廠および呉海軍工廠で造機部長を務める。米沢海軍武官会会員〔『遠い潮騒』144頁〕。 * 昭和鋼管役員 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小田切延寿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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