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小田団[おだだん] 小田団(おだだん)は、815年から10世紀まで日本の陸奥国に置かれた軍団の一つである。玉造団とともに陸奥国最北の軍団であった。小田郡に置かれたと推定されるが、正確な位置は不明である。 == 歴史 == 小田団は、弘仁6年(815年)8月に陸奥国が4個軍団を増やしたときに設置された。以後、陸奥国では6団6000人が6交代制で常時1000人の兵力を駐屯地に維持することになった〔『類聚三代格』巻第十八。黒板勝美・編『類聚三代格(後編)・弘仁格抄』551-552頁。〕。小田団の兵士は、玉造団・名取団とともに3軍団で400人を胆沢城の鎮守府に、100人を玉造塞に駐屯させたようである。この時の定員は、標準的な各団1000人であろう。 後に磐城団が増設されて7団7000人となり、承和10年(843年)に1000人を増員して7軍団に割りふった〔『続日本後紀』承和10年4月19日条。〕。小田団の増員後の兵力は不明だが、引き続き鎮守府の守備にあたった〔元慶年間(877年から884年)の太政官符に、鎮守府の守備にあたる軍毅が15人、国府守備にあたる軍毅が20人とある。前者を3軍団、後者を磐城団を加えた4軍団と按分すれば5人ずつで割り切れる。平川南『漆紙文書の研究』282頁。〕。 承和10年(843年)2月26日の日付で、不明の軍団の主帳牡鹿連氏縄が2人の射手の病欠を届け出た漆紙文書が、胆沢城趾から見つかっている。牡鹿連は牡鹿郡の豪族なので、小田団の主帳である可能性が高い〔『多賀城市史』1(原始・古代・中世)255頁。〕。 10世紀に編まれた延喜式にも陸奥国に7団を置くことが規定されており、軍団の構成は変わらなかったと考えられる〔橋本裕は、変更の可能性もあると見る(「律令軍団一覧」、『律令軍団制の研究』(増補版)159-160頁)。〕。11世紀までに廃絶した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小田団」の詳細全文を読む
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