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小田急電鉄経堂工場(おだきゅうでんてつきょうどうこうじょう)は、かつて小田急電鉄に存在した鉄道車両工場である。 1927年の小田原急行鉄道開業と同時に経堂駅の北側に開設された施設で、開業当初は経堂車庫と称した〔大幡 (2002) p.140〕が、1940年に経堂工場に改称〔、1948年の東京急行電鉄(大東急)からの分離後に業務の一部を再編し〔、1950年には新設された経堂検車区に一部業務を移管した〔。戦後の車両数の増加に伴い、拡張の困難な本工場と相武台工場の業務を移管する新工場を建設することになり〔『鉄道ピクトリアル』通巻405号 p.100〕、1962年に大野工場が業務を開始すると同時に廃止された〔。 本項では「小田急」と表記した場合、小田原急行鉄道および小田急電鉄をさすものとする。 == 設備概要 == 経堂工場の敷地は長手方向に200m程度で〔『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.97〕、3本の収容線を備えた建屋が3棟並び〔『鉄道ピクトリアル』通巻789号 p.54〕、3棟を合わせた幅は40.2m〔『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.101〕、建屋の奥行きは67.5mであった〔。 3棟のうち、もっとも北側の棟(北棟)には主電動機の保守を担当する職場(電動機職場)があった〔。北棟と中央棟の間には溶接職場があった〔。中央棟には台車の保守や整備を担当する職場(台車職場)が〔、南棟には電動機以外の電装品を扱う職場が設けられていた〔。南棟の南側にはブレーキを扱う空制機器職場があった〔。 これらの主建屋の南側には「車庫線」と呼ばれる線路が5線配置され〔、そのうち1本には転車台も設けられていた〔生方 (2009) p.61〕。また、主建屋北側には、部品倉庫に荷下ろしをするための「倉庫線」と呼ばれる線路が配置されていた〔。 塗装用の作業場は特になく、その都度建屋内の空いている線に移動して塗装作業を行なっていた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小田急電鉄経堂工場」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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