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小田部 通麿(おたべ みちまろ、 1926年11月24日 - 2004年8月29日)は、日本の俳優・住職。福岡県山門郡柳川町〔『日本映画人名事典 男優篇 上巻』(1996年版)p.354〕出身。本名:釈 通麿(とき みちまろ)、別名:小田部 道磨。 == 来歴・人物 == 柳川町(現・柳川市)の寺の息子として生まれ、18歳で太平洋戦争に応召する。復員後は拓殖大学専門部司政科(現・政経学部)に通い、1948年に卒業。終戦後に町で戦災孤児たちが盗みを働いて少年院に送られる姿に同情し、これらの少年たちのために何かしてやりたいと考え、大阪府茨木市の「浪速少年院」や福岡県の「福岡少年院」で教官を務めた〔『テレビ映画「新選組血風録」の世界』p.183〕。 少年院での仕事に行き詰まりを感じていた1955年、たまたま訪れた東映京都撮影所にて面構えが強面だったことで俳優への道を勧められ東映京都撮影所に入社する。時代劇映画やヤクザ映画、テレビ時代劇で主に悪役俳優として活躍し後に京都市北区の誠心寺に婿養子として入り、住職と俳優の二束の草鞋を踏んだ。法名は「通山(つうぜん)」〔『テレビ映画「新選組血風録」の世界』p.183〕。 1967年から1970年にかけて栗塚旭主演のテレビ時代劇シリーズ『俺は用心棒』、『待っていた用心棒』、『帰って来た用心棒』、『天を斬る』、『燃えよ剣』に西田良・香月凉二と共にレギュラー出演し、味のある名脇役として一連の作品を盛り上げた。特に『燃えよ剣』で演じた、新選組を応援する八木家の差配人・伝蔵役は左右田一平演じる町医者・裏通り先生とのコンビが脇役としての存在感を生み出していた。2000年に放送された京都チャンネルのドキュメント番組『新選組黄金期』では、誠心寺を訪れた左右田一平と対談し、『燃えよ剣』撮影当時の思い出を語っている。 小田部がレギュラーに起用された上記作品群の脚本全てを執筆した結束信二が1987年に死去した。結束が生前に「小田部さんがお坊さんになったので葬式は小田部さんに」と遺言していたこともあり、葬式では舞台稽古の合間を縫って駆けつけた小田部がお経を涙声で読み上げ〔『テレビ映画「新選組血風録」の世界』p.177〕、結束信二の墓も小田部が住職を務める誠心寺に存在する〔『テレビ映画「新選組血風録」の世界』p.179〕。 2004年(平成16年)8月29日午後8時49分、再生不良性貧血により京都市左京区の病院で没した〔小田部通麿氏死去 俳優 共同通信 47NEWS(2004年9月16日付)〕。。 == 主な出演 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小田部通麿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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