翻訳と辞書
Words near each other
・ 小田部通麿
・ 小田部道麿
・ 小田部陽一
・ 小田部雄次
・ 小田部雪
・ 小田郵便局
・ 小田都弥可
・ 小田野城
・ 小田野展丈
・ 小田野柏
小田野氏
・ 小田野直武
・ 小田陽子
・ 小田雅久仁
・ 小田雅志
・ 小田静枝
・ 小田靜枝
・ 小田顕家
・ 小田飛鳥
・ 小田駅


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

小田野氏 : ウィキペディア日本語版
小田野氏[おだのし]
小田野氏(おだのし)は日本氏族
== 概略 ==
小田野氏の本姓源氏。即ち、清和天皇第六皇子 貞純親王王子 経基王を祖とする清和源氏でその二代 源満仲の四男 頼信を祖とする河内源氏家系に属する佐竹氏の庶流にあたる。佐竹氏の起こりは河内源氏 二代 頼義の三男 新羅三郎義光の長男 進士判官義業が常陸に居住し常陸源氏となり、その子 昌義が佐竹氏を名乗ったことによる。
小田野氏はこの佐竹氏の一門の山入氏から派生する一族で、常陸守護 佐竹貞義の七男 師義が山入氏を起こして出家して小田野尾張入道を名乗ったのが起源であり、師義の次男(三男とも)、 自義が小田野九郎、尾張守を名乗ることにはじまる〔太田亮著、上田萬年三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店1934年) 976頁参照。〕。
小田野氏が属する山入氏は、本来、佐竹姓を使用し続けており、佐竹宗家が鎌倉府の重鎮なら、山入氏は室町幕府の京都扶持衆として幕府に属して、幕府から常陸守護職に任ぜられるなど、家格、独立性高く、また宗家ともほぼ対等の地位にあった〔『佐竹系図』によれば「貞義七子師義 久慈郡山入郷より始起こる 掃部助 刑部大輔 久慈郡国安高館にあり、その地山谷の間にあるを以て人呼んで山入と因うて氏となす 尊氏に従って歴戦功あり、その鎮西にあり豊後鞴浜に戦いて天龍寺を落とす時に従軍す 正平七年 師義 尊氏に従って畠山国清を討ち播磨小清水雀松原等諸々に戦ふ 尊氏利非ず攝津松岡城に走る 敵復り攻む、師義拒戦して死す 尊氏其の子孫を遇するに特に厚し、 国安高柿松平、小田野、小里郷陸奥依上保等を與ふ」とある。大内政之介著『山入一揆と佐竹氏』(筑波書林1991年)5頁参照。〕。佐竹宗家の義盛に男子がなく、藤原氏の出である上杉氏から義人が入婿すると、異姓の棟梁に反発する山入党はこれに反発、百年に及ぶ大乱を起こし、小田野氏ら山入党は佐竹興義を主君と仰ぎ、長倉城に拠って佐竹宗家に抗した。これを山入一揆という。しかし、鎌倉公方 足利持氏の命を受けた、岩松満国らの軍が同城を取り囲み、興義らの一党を討つと、小田野自義はついに小野崎氏や江戸氏ら宿老らと盟約結んで、鎌倉府方に服し、佐竹義人を主君と仰ぐこととなった〔。
文明10年(1478年1月に起きた佐竹宗家と山入氏の合戦では宗家方につき、佐竹義治の命で義治次男 義武とともに小田野中務大輔義安が久米城に入った。
1月28日未明、山入方の大将 山入義知が子 義房と弟 四郎次郎義顕を先陣として国安城を出て来襲すると、宗家方は山入方の大将 義知、その嫡男 義房こそ討ち取ったものの、宗家方も佐竹義武をはじめ小田野中務大輔義安が討ち死にし、義武を補佐する四殿衆も立原筑後、瀬尾大膳が討ち取られるなど敗北を喫したと記録されている〔大内政之介著『新編金砂戦国史』(筑波書林1993年)152頁、153頁参照。〕。その後も小田野氏は佐竹家臣として続き、小田野大和守義敦久慈郡盛金邑の佐竹家臣 川野辺内記重行の女を正室としたとされる〔大内政之介前掲書(筑波書林、1993年)115頁参照。〕。
また、常陸守護代 江戸氏の家臣として田谷村に75貫を領する小田野式部なる部将がいた〔大内政之介前掲書(筑波書林、1993年)204頁参照。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小田野氏」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.