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小笠原三九郎[おがさわら さんくろう]
小笠原 三九郎(おがさわら さんくろう、1885年(明治18年)4月5日 - 1967年(昭和42年)12月13日)は、昭和期の日本の男性政治家、実業家。商工大臣・農林大臣・通商産業大臣・大蔵大臣。西尾市名誉市民。 == 来歴・人物 == 愛知県幡豆郡室場村(現・西尾市)に、小笠原長左衛門の三男三女の末子として生まれる。西尾高等小学校、第三高等学校を経て、1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業、台湾銀行に入行する。東京支店支配人代理、広東支店長、日支合弁の「華南銀行」(本店台北)専務等を経て、審査第一課長として、鈴木商店の破綻処理にあたる。この時、「自分には私利私欲は一切無い」と主張する支配人金子直吉に向かって「あなたは“所有欲”は無いかも知れないが、“使用欲”については天下無類である。今後私欲が無いなどとは絶対に言わせませんよ」と単刀直入に言い放ち、金子を沈黙させたことがある。 1926年(大正15年)台銀を退職後、台湾土地開拓社長、スマトラ護謨拓殖監査役等を務めた後、1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で旧愛知4区から立候補し初当選する。以後当選6回。政友会分裂後は中島派に所属、大日本政治会政務調査副会長、大蔵政務次官(小磯内閣)等を歴任する。戦後は幣原内閣に商工大臣として入閣。元三井総元方理事長の向井忠晴、元運輸大臣の小日山直登という大物を招聘してそれぞれ貿易庁長官、石炭庁長官に据え、また大幅な人事異動を断行して戦後の経済再建にあたった。 日本進歩党の結成に参加したが、翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選したため1946年公職追放された。1951年(昭和26年)追放を解除され、翌年の第25回衆議院議員総選挙で自由党から復活当選を果たす。同年10月第4次吉田内閣で農林大臣として入閣し、同年12月通産大臣兼経済審議庁長官に転ずる(翌年3月より通産相専任)。1953年(昭和28年)5月第5次吉田内閣で大蔵大臣に就任し、当時大幅な赤字となっていた国際収支を改善すべく、国内経済縮小によって物価の引き下げて国際競争力の向上を図るため、財政金融一体の引き締め政策を推進した。 1958年(昭和33年)、落選により政界を引退し、経済人としての活動に専念する。日本貿易振興会、南方農林協会各会長、極洋捕鯨(現・極洋)社長・相談役、太平洋海運社長・会長・相談役などを務めた。1964年(昭和39年)勲一等瑞宝章受章。1967年(昭和42年)12月13日、82歳で死去。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小笠原三九郎」の詳細全文を読む
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