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小笠原 信元(おがさわら のぶもと、1544年(天文13年) - 1612年8月24日〈慶長17年7月28日〉)は、戦国時代の武将。官位は安芸守。幡豆小笠原氏。 三河国寺部城主小笠原広重の長男。弟に広朝(正吉)、広忠、養子に信重(広忠の次男)がいる。母は小笠原安元の娘。 父の広重は今川義元に仕えていたが、今川氏の家督を相続した今川氏真を見限り、徳川家康麾下となった。永禄11年(1568年)父と共に遠江国船方山の砦を守備し、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いにも従軍した。 天正4年(1576年)武田氏に備えて松平康親と共に遠江国諏訪原城を守備し、天正7年(1579年)牧野康成、松平家忠と共に駿河国持船城を攻める。天正10年(1582年)後北条氏に備えて駿河国三枚橋城を守備し、富士郡のうちに1000石の采地を賜る。 天正18年(1590年)小田原征伐に参陣し、後北条軍が鷹巣砦を撤退する際に奮戦し首級を得て、井伊直政、松平康重が夜襲をかけて小田原城内に乱入すると、これに従った。家康の関東移封に伴い、上総国周淮郡2500石に采地を改められ、徳川水軍の船手頭役を命ぜられた。 天正19年(1591年)九戸政実の乱鎮圧に供奉し、文禄元年(1592年)文禄・慶長の役で肥前国名護屋に滞陣した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは九鬼水軍に備えて松平家信、千賀孫兵衛らと共に尾張国毛呂崎城を守備し、戦勝後に大坂城で家康に拝謁し、呂宋の茶壷を拝領した。 戦後は富津に移り、慶長17年(1612年)同地で死去。享年69。妻は三浦氏。法名正珊。同国の正珊寺に葬られる。 == 参考文献 == *『寛政重修諸家譜』巻第191 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小笠原信元」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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