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小笠原信興 : ウィキペディア日本語版
小笠原信興[おがさわら のぶおき]

小笠原 信興(おがさわら のぶおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将遠江高天神城主。「長忠」の名で知られるが、これは軍記物においてのみ見られる呼称で、初名は氏助で後に信興と改名している。
== 生涯 ==
信濃国小笠原氏の庶流である遠江国高天神小笠原氏の出身。高天神小笠原氏は小笠原春義(春茂)の代に、当時の高天神城主であった福島氏花倉の乱で没落したのと入れ替わりに駿河国今川氏の家臣として台頭した一族である。春茂の「春」の字は福島氏の通字であるが、以降の当主は今川氏の通字である「氏」を授与され、一門衆に準じて遇された。
信興は、春義の孫にあたる。父の氏興は今川氏の家臣として仕えていた。信興の初名は「氏助」で、「氏」の通字を親子続けて授与されており、「助」は小笠原氏の通字であると考えられている。今川義元とその子である今川氏真に仕えるが、永禄11年(1568年)に甲斐国武田信玄による駿河侵攻により今川氏が没落すると、遠江国の支配を今川氏から奪った三河国徳川家康に属し、武田領国となった駿河との最前線にあたる高天神城主となる。永禄12年(1569年)に家督を継ぐ(竜泉院文書)。
家康に仕えてから、元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦い姉川の戦いなどに参加して武功を挙げた。元亀2年(1571年)3月の武田氏の大規模な遠江・三河侵攻では武田方が大軍を率いて高天神城に攻めて来るが、信興はわずかな兵力で籠城し、一旦は武田軍を撃退した。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いにも参加している。
天正2年(1574年)6月、武田勝頼が大軍を率いて再び高天神城に攻めて来る。このとき、信興は家康に援軍を要請したが、家康は武田軍を恐れて援軍を出さなかったため、やむなく信興は勝頼に降伏した。信興は駿河庵原郡・富士郡(鸚鵡栖)において1万貫と国替されている。
高天神城主を離れて以降は駿河東部における動向が確認されるのみで文書には見られず、天正2年(1574年)に勝頼に降伏した後、ほどなくして病死したとも言われている。また、『北条記』によれば、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、北条氏政を頼って小田原に逃れたが、ここで織田信長の命令を受けた氏政によって殺されたとされている。別の資料では氏政の庇護を受けたものの、天正18年(1590年)に北条氏が滅亡したとき、家康によって捕らえられ、過去の降伏の罪を咎められ処刑されたとされている。
その後は叔父の小笠原義頼が家督を相続した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小笠原信興」の詳細全文を読む



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