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小笠原貞嘉 : ウィキペディア日本語版
小笠原忠嘉[おがさわら ただひろ]
小笠原 忠嘉(おがさわら ただひろ、天保10年2月29日1839年4月12日)- 万延元年6月25日1860年8月11日)は、豊前小倉新田藩(千束藩)第7代藩主、のち豊前小倉藩第8代藩主。小笠原家宗家9代。正室、側室ともになし。官位は従四位下。右近将監。千束藩主時代の名乗りは小笠原 貞嘉(おがさわら さだひろ)。幼名は直之進。
== 生涯 ==
千束藩第5代藩主・小笠原貞哲の四男として江戸で生まれる。母は新井氏。嘉永4年(1851年)5月2日、兄貞謙の死去により、末期養子として家督を継いだ。千束藩主となり、小笠原貞嘉と名乗った。安政元年(1854年)6月5日、本家の小倉藩主・小笠原忠徴の養嗣子となって忠嘉と改名する。千束藩は三兄の貞寧が継ぐこととなった。安政2年12月16日、従五位下伊予守に叙任する。
安政3年(1856年)8月29日、養父忠徴が死去したため、家督を継ぐ。安政4年12月16日、従四位下右近将監に叙任する。忠徴は藩政改革を行なって成功していたため、この頃の小倉藩では白黒騒動での衰退などから再建が進んでいた。忠嘉の治世ではさらに殖産興業政策が推し進められ、軍備も充実し、金山開発を再興したり薬剤を独自に開発して、それを領民に無料で処方するなど、藩政の再建が進んだ。しかし白黒騒動の余波は大きく、忠嘉の時代にも家臣団は二派に分かれて派閥争いを繰り返していたと言われている。
万延元年(1860年)6月25日(幕府の届出は10月26日)、22歳の若さで死去し、一族の安志藩主・小笠原貞幹(忠幹と改名)が跡継ぎに迎えられた。法号は義峯院殿高鑑道隆。墓所は北九州市小倉北区の広寿山福聚寺





抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小笠原忠嘉」の詳細全文を読む



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