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小笠原貞宗[おがさわら さだむね]
小笠原 貞宗(おがさわら さだむね)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃守護。 == 生涯 == 正応5年、信濃国松尾(現・長野県飯田市)に生まれる〔二木,732頁〕。北条貞時から偏諱(「貞」の字)を受けている〔鈴木由美「御家人・得宗被官としての小笠原氏 -鎌倉後期長忠系小笠原氏を題材に-」(所収:『信濃』第64巻第12号 (通巻755号、信濃史学会、2012年12月))脚注24。兄弟の貞長についても同様。「宗」の字は、父・宗長が貞時の父である北条時宗から一字拝領したもの(鈴木、同前)に由来する。〕ことから明らかであるように、当初は鎌倉幕府に仕えており、元弘元年(1331年)からの元弘の乱では新田義貞に従い足利尊氏(高氏)らとともに後醍醐天皇の討幕運動を鎮圧に加わり、北条貞直に属して楠木正成の赤坂城を攻めた(『光明寺残篇』)。しかし高氏が鎌倉幕府に反旗を翻すとこれに従い、鎌倉攻めに参加する〔。建武元年、この功績により信濃国の守護(信濃守守護)に任ぜられた〔〔「貞宗、永仁二年松尾館に生まれ、父に継いで惣領職(信濃守)となり、建武元年信濃守守護職に命じられ(後略)」小学国史教授用郷土史年表並解説、更級郡教育会、国立国会図書館、1937年〕。 中先代の乱では北条残党により国衙を襲撃されて国司を殺され、鎌倉進軍を阻止できなかったが、鎮圧後、尊氏が後醍醐天皇から離反するとこれに従った〔〔乱における国衙焼失後、後醍醐天皇の任命した後任の国司堀川光継を筑摩郡浅間宿に出迎えている。〕。建武3年/延元元年(1336年)には足利方の入京により後醍醐天皇が比叡山へ逃れる。この際、貞宗は近江坂本に滞陣し、新田義貞の弟脇屋義助を破り(『梅松論』)、後醍醐方の兵糧を絶つ目的で琵琶湖の湖上封鎖を行った〔 その後も一貫して北朝側の武将として金ヶ崎の戦い、青野原の戦いなど各地を転戦し、暦応3年/興国元年(1340年)には、遠江から信濃南朝方の拠点である伊那谷に入った北条時行を大徳王寺城に破った。康永元年/興国3年(1342年)には高師冬の救援要請を受けて常陸に北畠親房を攻めた。 建武2年9月には安曇郡住吉荘を、正平2年/貞和3年4月には近府春近領を与えられ、信濃府中に進出する足掛かりを得た。正平2年/貞和3年(1347年)5月26日、京都で死去〔。56歳没。子の政長が家督を相続した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小笠原貞宗」の詳細全文を読む
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