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小笠原貞頼 : ウィキペディア日本語版
小笠原貞頼[おがさわら さだより]
小笠原 貞頼(おがさわら さだより、生年不詳 - 寛永2年(1625年)〔『信濃人物志』文正社、1922年、160頁〕)は、安土桃山時代武士通称は、彦七郎・又七郎、民部少輔。徳川家の家臣で、小笠原諸島の発見者と伝えられる。
信濃国守護小笠原長時の孫(曾孫説もあり)、小笠原長隆の次男、松本城(深志城)城主・小笠原貞慶の甥にあたるとされる。
== 出自 ==
後世(江戸時代中)に製作された小笠原氏系図『小笠原家譜』では、当時の小笠原氏当主は、天正7年(1579年)に父の長時から家督を相続した三男の貞慶で、父に先立って戦死した長隆の弟である、とされている。
貞頼の子孫を自称する小笠原貞任は『巽無人島記』の記述をもとに小笠原諸島探索を幕府に願い出たが、出自を怪しんだ奉行所の調べにより罪に問われてしまった。
寛政重修諸家譜』によれば、同じく庶流であった遠江国高天神城城主小笠原長忠(信興)が元亀2年(1571年)3月、武田信玄に攻められた時に小笠原長隆・貞慶兄弟が同族と見られる「民部貞頼」とともにその救援に向かったという記録が残っている。また同時期の他史料にも「小笠原民部大輔」という人物が徳川氏に仕えていたという記録がある。ここから「民部貞頼」=「小笠原民部大輔」=小笠原貞頼と考えて実在説を唱える人もいる。
近年では、天正10年(1582年)7月に天正壬午の乱で甲州入りした徳川家康が市川に逗留中、大聖寺(身延町)へ「小笠原貞頼」を代参させ戦勝祈願したという記述が発見されている。
その他、幕府の船手頭であった小笠原信元(幡豆小笠原氏)と同一視する見解もあるが、確証はない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小笠原貞頼」の詳細全文を読む



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