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小笠原長時 : ウィキペディア日本語版
小笠原長時[おがさわら ながとき]

小笠原 長時(おがさわら ながとき)は、戦国時代の武将。信濃国守護で戦国大名。信濃小笠原氏の当主。信濃林城主。小笠原長棟の長男。小笠原流弓馬術礼法宗家。
== 生涯 ==
大永6年(1526年)11月5日、13歳で元服する。家督を継いだのは天文10年(1541年)、父長棟が出家したときと思われる。この頃から当主として小笠原一族を率いている(長棟の死去は天文11年(1542年))。
信濃隣国の甲斐国では小笠原氏と同じ甲斐源氏の一族である守護武田氏により国内統一がなされ、長時と同じ年に家督を相続した武田晴信(信玄)は信濃侵攻を開始する。天文14年(1545年)に晴信は高遠頼継藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、4月17日に武田勢は頼継の高遠城を陥落させる。さらに長時の娘婿でもある福与城の頼親を攻めると、長時は北方の龍ヶ崎城辰野町)において武田方に対抗する(「小平物語」)。武田勢は甲斐や今川・北条の援軍を得て同年6月1日には武田家臣板垣信方の軍勢が龍ヶ崎城を陥落させ、長時は敗退している(『高白斎記』)。長時は弓馬に優れた勇猛な武将であったが、部下を統率する能力は芳しくなかったという〔国史大辞典
武田勢は伊那を制圧すると佐久侵攻を進め、小県郡の有力国衆である村上義清と対立する。天文17年(1548年)2月には小県郡上田原の戦いで義清は武田勢を撃破し(『高白斎記』『勝山記』)、長時は同年4月に村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡へ侵攻する(「神使御頭之日記」)。さらに6月にも諏訪西方衆らを迎合して諏訪侵攻を行い(「神使御頭之日記」)、6月19日に塩尻峠へ進撃するが武田勢に敗退している(塩尻峠の戦い)。
天文19年(1550年)7月15日には本拠の林城も失い、信濃小笠原氏は没落した(『高白斎記』)。同年には同族である京都小笠原氏の小笠原稙盛秀清の父)を介して将軍足利義輝に太刀・馬を献上しており、信濃国衆に対する下知を約束されている。没落後の長時は中塔城の二木氏を頼り越後へ逃れたとも(「二木家記」)あるいは実弟である鈴岡城の小笠原信定のもとへ逃れたとも言われるが(「笠系体成」)、以後の正確な動向は不明。
駿河や伊勢を経て〔『長野県史 通史編 第3巻 中世2』〕、弘治元年(1555年)には同族の摂津国芥川城三好長慶を頼って上洛し〔三好氏阿波国守護細川氏の被官で、鎌倉時代の阿波守護小笠原長清の後裔を称し、小笠原氏と一族意識を持っており、長時は長慶や京都小笠原氏など同族間ネットワークを駆使したことが指摘されている。〕、上方に滞在している(『言継卿記』)。
信濃では村上義清ら北信豪族が越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・上杉間の川中島の戦いが繰り広げられており、永禄元年には甲越和睦の一環として武田晴信が信濃守護に補任されているが晴信は和睦後も軍事行動を続け、将軍義輝は景虎への信濃介入を認めている。永禄2年(1559年)には長慶や伊勢貞孝の仲介で将軍義輝と対面して御盃を頂戴しており(『伊勢貞助記』)、義輝は大舘晴光を介して上杉謙信に対して長時の信濃復帰への助力を命じている〔永禄4年閏3月4日付義輝御教書「上杉家文書」、また長時・貞虎(貞慶)は本門寺(大阪府高槻市)に対して旧領復帰を祈念し寺領寄進を約束している。〕。
永禄5年(1562年)になり、長時は先祖伝来の小笠原流弓馬術礼法の伝統を絶やさないため、同族である赤沢経直(小笠原貞経)に糾法的伝と系図、記録類を譲渡し、弓馬術礼法の宗家の道統を託した。道統とは小笠原の弓・馬・礼の三法の総取り仕切り役の正統継承を意味するものである。つまりこの時、長時の小笠原総領家と小笠原貞経による弓馬礼法の家が分離した。
永禄9年(1566年)には三好義継松永久秀らが擁立した将軍足利義栄に太刀・馬を献上したが(『笠系大成』)、同11年(1568年)には織田信長により三好氏が駆逐され、足利義昭政権が樹立し、同12年(1569年)の本圀寺の変で弟の信定を失っている〔武田氏は信長・義昭政権と友好的関係を築いている。〕。
長時はしばらくして上杉氏のもとへ移り〔義輝が景虎に長時帰国支援を命じた永禄年9月10日には甲越間の最大の激闘であったと言われている第四次川中島の戦いが発生しており、これを機に甲越間の北信地域を巡る争いは収束している。〕、天正6年(1578年)の謙信死後は御館の乱上杉景虎の使者を果たすが〔「上杉景虎書状」天正六年霜月三月〕、上杉景勝が上杉氏の家督を継承すると越後を離れた。天正8年(1581年)には織田信長に迎えられ、信濃の名義上の旗頭として利用される。信長の京都御馬揃えには公家衆の一人として参加した。後、会津の蘆名盛氏に客分として迎えられる。盛氏の下で長時は厚遇され、また軍師として戦略面で盛氏の支援も担当したという〔林哲『会津 芦名四代』(歴史春秋社)48・49項〕。
天正11年(1583年)2月25日、会津で死去。享年70。この前年の天正10年(1582年)に武田氏が織田氏に滅ぼされ、蘆名家には同行せず織田家に残り信長に仕えていた三男の小笠原貞慶が、本能寺の変以後に徳川家康に臣従して旧領を回復した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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