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小笠原 長行(おがさわら ながみち)は、江戸時代後期の江戸幕府の老中、外国事務総裁。肥前国唐津藩小笠原家初代・小笠原長昌の長男。唐津藩の世嗣(藩主とする資料もある)。 == 生涯 == === 老中就任まで === 文政5年(1822年)5月11日、肥前国唐津藩主小笠原長昌の長男として唐津城二の丸で生まれた。幼名は行若(後に敬七郎)。 文政6年(1823年)に長昌が死去する。後継の藩主には信濃国松本藩主戸田光庸の長男の小笠原長国まで4人続いて養子が迎えられ、幼少の長行は庶子として扱われた。 長行は幼少から明敏であったので、天保9年(1838年)に江戸に出て、そこで朝川善庵に師事した。安政4年(1857年)に長国の養嗣子になり、藩政にも携わって名声を高めた。図書頭と称する。文久2年(1862年)には世嗣の身分のまま、奏者番から若年寄、9月11日老中格、そして間もなく老中となった。同年に生麦事件が起こったとき、事態を早急に終結させるために翌文久3年5月9日(1863年6月24日)、幕府に無断〔「無断」とされるが、将軍後見職の一橋慶喜の黙認は得ていたといわれている。〕で賠償金10万ポンドをイギリスに支払った。続いて大兵を率いて上京の途に就くが、6月に大坂滞在中に老中職を罷免された(後述)。 元治元年(1864年)に謹慎を解かれ壱岐守となり、慶応元年(1865年)9月4日に再び老中格、さらに老中に再任される。慶応2年(1866年)の第2次長州征討に際しては、小倉口の総督として指揮を執っていたが、熊本藩はじめ諸藩を束ねることができず連敗を重ね、将軍徳川家茂の死の報を聞いて戦線をひそかに離脱している。この失態のため、10月に一時老中を罷免されたが、徳川慶喜の強い意向により11月には再任された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小笠原長行」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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