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小菅 智淵(こすげ ともひろ、天保3年11月25日(1832年12月16日) - 1888年(明治21年)12月18日)は、日本の陸軍軍人。工兵隊の創成者で、陸軍参謀本部初代陸地測量部長を務めた。 == 経歴 == 1832年(天保3年)11月25日、江戸牛込区山伏町(現在の東京都新宿区市ヶ谷山伏町)に幕臣関定孝の次男として生まれた。幼名辰之助。実弟の関定暉は陸地測量部の初代地形課長である。 幼少時から長じて昌平坂学問所で学び、学問の他に武技も熱心に学んだ。22歳の時、叔母の嫁ぎ先である旗本小菅五郎兵衛の養子となる。その後、幕府の軍艦操練所や開成所などに入所して、航海術、工学、数学等の研究に没頭した。 その後、講武所に入り、士官しての軍事教育を受け幕府陸軍の歩兵差図役、同頭取となり、慶応4年(1868年)3月13日には歩兵頭並に昇進し、同3月中には工兵隊に転属となり、工兵頭並に転出した。戊辰戦争では、幕臣として官軍に抗し、箱館戦争に至るまで各地を転戦し、五稜郭の戦いの後、捕らわれの身となった。 約1年の幽閉の後、1870年(明治3年)兵部省に出仕し、陸軍兵学寮教授、陸軍教導団、陸軍築造局、陸軍士官学校教官等を経て、1879年(明治12年)陸軍工兵少佐として参謀本部測量課長に任命された。その後、全国測量の計を立て、今日の5万分1地形図の全国整備の基礎を築くとともに、内務省大三角測量事業を併せ、全国測量事業を統一した。 1884年(明治17年)9月10日、陸軍工兵中佐として参謀本部測量局長に補せられる〔『官報』第367号 、明治17年9月16日。〕。1886年(明治19年)4月23日陸軍工兵大佐となり〔『官報』第846号 、明治19年4月30日。〕、参謀本部長隷下の独立官衙たる陸地測量部の創設に尽力し、1888年(明治21年)5月14日陸地測量部初代部長となった〔『官報』第1462号 、明治21年5月17日。〕が、同年12月18日、久留米基線測量視察からの帰途、名古屋陸軍病院にて病没。享年56。墓所は青山墓地。 1899年(明治32年)、銅像が芝公園に建立されたが、戦時中の金属供出で撤去され、再建はされていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小菅智淵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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