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小西 得郎(こにし とくろう、1896年7月10日 - 1977年6月9日)は、昭和期のプロ野球監督、野球解説者。 プロ選手を経験しなかったことに加え、審判員や球団売買の仲介を経験した異色の経歴を持つ。ラジオおよびテレビの実況中継放送における「独特の話法〔殿堂一覧 小西得郎 財団法人野球体育博物館〕」での解説が知られた。同時代の野球解説において大和球士と双璧を成した。 == 来歴 == === 生い立ち、職を転々 === 東京府麹町区出身。小西は「私は東京生まれだが、言葉は田舎育ちの両親の影響を受けている」と述べている〔小西得郎『したいざんまい』 実業之日本社、1957年、p.44〕。父・小西増太郎は広島県生まれ〔、岡山県児島育ち〔『したいざんまい』、pp.24-25〕 のロシア文学者で、京都帝国大学教授を務めた。増太郎は学生時代にはヨシフ・スターリンと知り合いであったという〔阿部牧郎『素晴らしきプロ野球』中央公論新社、1994年、p.262〕〔山口瞳『山口瞳対談集 2』 論創社、2009年、pp.237-238〕。母は愛知県知多半島の中須生まれ、半田育ち〔。父が15、16のとき、志を立てて東京に出てきたのち母と出会い、得郎が生まれた〔。小西は父から「私の祖先は鞆の浦出の小西、それが備前の国は岡山に行って小西行長となったと聞かされた」と自著で述べている〔〔。 旧制日本中学(現・日本学園中学校・高等学校)を経て、超難関校とされた三高(東京帝国大学、京都帝国大学への登竜門であった)の入試に合格したにもかかわらず、小西は三高への入学をとりやめ、野球をしたいがためだけに明治大学に進学した。明大では第8代キャプテンとして東京六大学リーグで活躍。 大学卒業後、石川島造船に勤務し、月島で石炭の採掘に従事〔『したいざんまい』、pp.121-122〕。2、3ヶ月ののち、営業部に配属されるが間もなく退職。友人と上海で阿片の密売を行う〔『したいざんまい』、pp.127-130〕。その後軍隊生活を経て、営業マン時代に鉄道省や電力会社に対する接待や商談の場として神楽坂の料亭をよく利用した縁で同地に9年間居つき、やがて32歳で神楽坂の置屋の主人となる〔『素晴らしきプロ野球』、p.255〕〔『したいざんまい』、p.130〕。置屋の設立資金は先の阿片密売で得た金だったという〔『素晴らしきプロ野球』、p.270〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小西得郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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