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『小説家の休暇』(しょうせつかのきゅうか)は、三島由紀夫の日記形式の評論・随筆。1955年(昭和30年)6月24日から8月4日まで約1か月半の日記の体裁をとりつつ、天候や私的な日常記述や時事はごく僅かで、読書感想や観劇評、随想や芸術観などが主体となり、最後の日は日本文化論を展開している〔松本道介「小説家の休暇」()〕〔上田真「小説家の休暇」()〕。発表は書き下ろしで、同年1955年11月25日に大日本雄弁会講談社より刊行された〔井上隆史「作品目録」()〕〔山中剛史「著書目録――目次」()〕。 一見、西洋型の作家と見られていた昭和30年代の三島の内面に、すでに晩年の行動(三島事件)へと向かう思考や諸要素が内包されていることが看取され〔〔田中美代子「解説」()〕〔、三島の精神史の断面を知る手がかりとなる重要な随筆・評論でもある〔。この評論の断章のいくつかは、のちの『文章読本』(1959年)や『葉隠入門』(1967年)などで再び生かされている〔。 == 作品背景 == 『小説家の休暇』を執筆していた1955年(昭和30年)の夏の前には、『沈める滝』『白蟻の巣』を書き終え、『幸福号出帆』を連載中の時期であった〔「第四章 『金閣寺』の時代」()〕。『小説家の休暇』を擱筆した後の9月からは肉体改造(ボディビル)に乗り出し、11月には、次作の取材のため京都の金閣寺へ出発し〔、すでに長編『金閣寺』の構想が練られている最中でもあった〔松本徹「『金閣寺』をめぐって」(『奇蹟への回路――小林秀雄・坂口安吾・三島由紀夫』勉誠社、1994年11月)。〕〔「第七回 美の呪縛」()〕。 前年1954年(昭和29年)には『潮騒』がベストセラーとなり、それまでにも近代能楽の戯曲『邯鄲』『綾の鼓』『卒塔婆小町』などが高い評価を受け、劇作家としても成功し、「鉢の木会」の一員にもなるなど作家として大きく成長していた時期であった〔。私生活でも肉体関係を持った恋人(豊田貞子)ができ、結婚を視野に交際中の頃であった〔〔「アメリカンファーマシー」()、〕。三島は1955年(昭和30年)7月5日の項で、次のように語っている〔「7月5日(火)」(『小説家の休暇』講談社、1955年11月)。、、〕。 これ以前の三島は絶えず外界に脅かされ、内面に激しく渦巻く悲劇に必死に対処してきていたが、急にそれが消えたことを吐露し〔、その現象を、クレッチマーが説いた分裂性気質の段階症例に倣いつつ自己分析して、氷のように硬く〈皮革のやうに〉ごわごわしたものが身のまわりを包んで鈍麻しているものと解析している〔。 そういった状態で迎えた30歳代を一区切りとして、様々な断想や評論がここで綴られ、代表作となる次の『金閣寺』では、これまでの半生を総括するような長編小説として取り組まれていくことになる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小説家の休暇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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