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小谷 承靖 (こたに つぐのぶ、1935年12月21日 - ) は、日本の映画監督・演出家・脚本家。東京府東京市杉並区出身。東京大学文学部卒業。 == 来歴・人物 == 小学校2年生まで東京で育つ。1944年3月末、父の故郷、鳥取県東伯郡西郷村に縁故疎開。県立倉吉東高校卒業まで鳥取で過ごし、東京大学文学部フランス文学科入学を機に東京に帰る。同時期に大江健三郎・久世光彦が在学していた。 大学卒業後、1960年に、暮らしの手帳社と東宝の入社試験を受け、東宝に入社。同期では7人が撮影所入りし、監督になったのは河崎義祐、橋本幸治、小谷の3人だった。(1961年、稲垣浩監督・円谷英二特技監督の『ゲンと不動明王』で初めて助監督に就く。 1964年には東宝のヨーロッパロケ企画の準備の為に渡欧し、『はなればなれに』撮影中のジャン=リュック・ゴダールの演出を見学。同年のカンヌ映画祭では藤本眞澄、浜美枝とゴダールとの通訳を務め、東京オリンピック開催を機に帰国。 1967年、坂野義光、西村潔らと水中撮影班「東宝フロッグメンパーティ」を結成し、『南太平洋の若大将』の水中撮影に協力。同年、『ドリフターズですよ!前進前進また前進』でチーフ助監督に昇進し、翌年、『クレージーメキシコ大作戦』(坪島孝監督)では劇中のショー場面の演出を担当した。その後、1968年から1969年にかけて、恩地日出夫と共に、大阪万博電力館で上映されたマルチスクリーン映画『太陽の狩人』の助監督、B班監督として世界を巡る。 1970年、映画『俺の空だぜ!若大将』で監督デビュー。主演の加山雄三とはザ・ビートルズ来日時、一緒に赤坂ヒルトンで会うなど親交があり、この作品の前にも加山のコンサートの記録映画『歌う!若大将』で監督昇進の話もあったが、「本編じゃないんだろ?そんなもので監督になるな」という恩地のアドヴァイスで見送っている。また、この年から団令子主演の連続テレビドラマ『Oh.カンパク君!』(関西テレビ)でテレビドラマの監督も務めた。 1973年、ランキン・バス・プロと東宝映像の合作ミュージカル映画で、ゼロ・モステル主演『Marco』の共同監督をセイモア・ロビーと共に務める。同年には、石原プロモーション製作、渡哲也主演によるバイオレンス・アクション映画『ゴキブリ刑事』に東宝から監督として参加。 日本国外での仕事はトム・コタニでクレジットされ、他には『極底探険船ポーラーボーラ』、『バミューダの謎 魔の三角水域に棲む巨大モンスター!』、『The Ivory Ape』(未公開、1980年アメリカでテレビ放映)、千葉真一・丹波哲郎・三船敏郎や英米俳優が出演し、幕末をテーマにした作品『武士道ブレード』(1981年)などがある。 1974年、フォーリーブス主演の『急げ!若者 TOMORROW NEVER WAITS』を監督。小谷にとってはじめてのアイドル映画となったが、フォーリーブス唯一の劇映画である。『ピンク・レディーの活動大写真』ではピンク・レディー、『愛の嵐の中で』で桜田淳子、『ホワイト・ラブ WHITE LOVE』で山口百恵と三浦友和、『すっかり…その気で!』でビートたけし、『潮騒』で堀ちえみ、それぞれの主演作品を手がける。 また1975年には、東宝による一般公募で「最も映画化して欲しい外国文学」に選ばれたツルゲーネフ原作『はつ恋』の映画化作品を監督。現在でも根強い人気のある文芸映画となった。 1985年にフリーランスとなり、テレビ映画・ビデオムービーなどのジャンルで活動。2009年より、青春期を過ごした鳥取県を舞台とした谷口ジローの劇画『父の暦』映画化を企画。2011年11月13日には同作品を朗読劇化、自らの演出で鳥取市民会館大ホールで上演された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小谷承靖」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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