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小里光忠(おり みつただ、生年不詳 - 元亀3年(1572年)12月)は、戦国時代の武将。小里氏。美濃国小里城主。通称、出羽守。子に小里光次、小里光明。 == 概要 == 小里氏は土岐氏の庶流であり、明応5年(1496年)に船田合戦に敗れた土岐元頼の子・土岐頼連から始まったとされる〔小里家譜〕。 天文3年(1534年)、頼連の子・小里光忠は、小里城を築城した。また、明知城の明知遠山氏と結び、遠山景行の娘を嫡子・光次の嫁に迎えた。 天文24年(1555年)に甲斐国の武田信玄の圧力に遠山諸氏が屈すると、小里光忠も武田氏に与同したとみられる。 しかし、元亀年間には小里光忠は稲葉山城を攻略した織田信長に通じており、武田信玄は「小里については隣邦からの助勢により、すでに逆心露顕のように見える。やむを得ず、残念に思うが、とりあえす許すというのを承った。その上で時期を待って成敗してほしい」と遠山景任(岩村遠山氏)と遠山直廉(苗木遠山氏)に書状を送っている〔7月7日付遠山左衛門尉、左近助宛武田信玄書状:訳横山住雄:『武田信玄と快川和尚』p.38-42〕。 元亀3年(1572年)5月には遠山景任、遠山直廉が相次いで死去し、織田信長は五男坊丸(後の織田勝長)を送り込み岩村遠山氏の養嗣子とし、苗木遠山氏には飯羽間遠山氏から遠山友勝を送り込んだ。 しかし、同年11月、武田信玄の西上作戦が本格化し、武田重臣の秋山虎繁の軍勢が岩村城を落としてしまう。同年12月、小里光忠は、同じく織田方であった遠山景行(明知遠山氏)、遠山友勝(苗木遠山氏)、遠山友信(飯羽間遠山氏)、東三河の奥平氏、菅沼氏、織田信広、河尻秀隆らと共に美濃国恵那郡の上村で合戦に及んだがこれに敗れ、嫡子・光次、遠山景行、遠山友勝等と共に討死した(上村合戦)〔「寛永諸家系図伝」〕。 家督は次子の光明が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小里光忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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