|
小野組(おのぐみ)は明治に入ってからの通称で、初代小野善助に始まり、「井筒屋」を名乗った江戸時代の豪商。糸割符商人。数多くあった分家との区別を図るために、その名前から特に「善印」とも称す。 == 概要 == 小野家は、初代新四郎則秀が江州高島郡大溝(滋賀県高島市)で、陸羽の物産と上方の物産を交易していたとされる。 1662-63年(寛文2-3年)ころ次男の主之が盛岡に下り、近江屋と称し、村井権兵衛を名乗った。甥の子どもである盛岡紺屋町の井筒屋の小野善助(1708年上洛)京都の鍵屋の小野権右衛門、南部盛岡で「紺印」の祖になった小野清助らがこれに協力した。小野一族は、上方から木綿・古手などの雑貨を運び、奥州から砂鉄・紅花・紫根を上方に送り、物産交易を営み財を成していった。京都の井筒屋善助・鍵屋権右衛門らは南部からの仕入れ店であったが、1776年(安永5年)幕府の「金銀御為替御用達」となり十人組に加入し、御為替名目金を自己の営業資金に流用し、京都では和糸・生絹・紅花問屋を、江戸では下り油・下り古手・繰綿問屋、盛岡では木綿商・古手商・酒造業を営んでいた。 江戸の小野組は、日本橋本石町(現日本銀行敷地内)に為替会社を置き、日本橋田所町に油店を持っていた。 1866年1月(慶応3年12月)に明治政府は財源確保のために「金穀出納所」を設けた際に、三井三郎助・島田八郎左衛門とともに小野善助を「金穀出納御用達」とし翌慶応4年1月には「出納所御為替御用達」に任じた。〔(慶應義塾大学)長崎県における近代的銀行資本の形成要因-小野組破綻が長崎に与えた影響- 小山幸伸 〕 * 村井権兵衛 * 小野権右衛門 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小野組」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|