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小野 誠治(おの せいじ、1956年6月18日 - )は、愛媛県西予市生まれの元卓球選手。近畿大学卒業後、日本楽器に所属。1992年 (平成4年) にグランプリに移籍し、1996年 (平成8年) 度全日本選手権を最後に、現役を引退。現在はヤマト卓球に勤務している。 == 経歴 == 現役時代は世界卓球選手権に5回連続で出場。1979年のピョンヤン大会では、強敵 (特に黄亮、魯尭華 、梁戈亮 、郭躍華 の中国勢) を連破し、初出場で男子シングルス優勝。小野以降、日本人の卓球世界チャンピオンは誕生していない。同大会では男子団体でも日本チームの一員として3位になり、銅メダルを獲得した。 1981年の世界卓球選手権ノビサド大会では、男子シングルスで1回戦で敗退、男子団体では2大会連続で銅メダルを獲得。この他、1983年の東京大会では男子ダブルスで準決勝、1987年のニューデリー大会では男子ダブルスで準々決勝に進出した。 また、1984年にはピョンヤンで行われたフレンドシップ・ゲームズ(ドゥルージバ-84)''(en)'' に参加し、阿部博幸と組んだ男子ダブルスで金メダルを獲得した''(en)'' 〔 この大会は、同年に行われたロサンゼルスオリンピックをボイコットしたソビエト連邦が中心となって行われた国際総合スポーツ大会で、6月から9月にかけて各競技が社会主義諸国の分散開催(卓球は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のピョンヤン)で行われた。日本はロサンゼルスオリンピックに参加したので有力選手は送らなかったが、卓球はまだオリンピックの正式種目ではなかったため、世界選手権が開かれない同年における実質的な「世界一決定戦」となった同大会に対して日本卓球協会は小野や阿部などのエース級選手を派遣した。この小野・阿部組の金メダルが、同大会で日本が獲得した唯一のメダルだった。〕。 卓球が初めてオリンピックの正式競技として採用された1988年のソウルオリンピックにも日本代表として出場し、男子シングルスでベスト16に入るなど、1970年代末から1980年代にかけて活躍した。 国際大会での活躍ぶりに引き換え、国内大会のタイトルにはなかなか縁がなく、全日本卓球選手権大会の男子シングルスを制したのは、1986年・30歳の時であった。その一方で、1990年後期日本卓球リーグにて、前人未到の日本リーグ100勝という記録を達成した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小野誠治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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