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小金井勝 : ウィキペディア日本語版
小金井勝[こがねい まさる]

小金井 勝(こがねい まさる、1902年5月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.207.〕〔映画世界社, p.88.〕〔映画世界社, p.114.〕〔映画世界社, p.113.〕〔''小金井勝''、''jlogos.com'', エア、2013年6月10日閲覧。〕〔''小金井勝''日本映画データベース、2013年6月10日閲覧。〕〔''小金井勝''、日本映画情報システム、文化庁、2013年6月10日閲覧。〕〔''小金井勝''日本映画製作者連盟、2013年6月10日閲覧。〕〔''小金井勝''KINENOTE, 2013年6月10日閲覧。〕〔''小金井勝''allcinema, 2013年6月10日閲覧。〕〔''五味國男''東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月10日閲覧。〕。本名柏井 勝(かしわい まさる)〔〔〔〔〔〔。新派新国劇を経てサイレント映画剣戟俳優に転向、立ち回りの巧さに定評があった〔。
== 人物・来歴 ==
1902年明治35年)5月25日大阪府大阪市西区に生まれる〔〔〔〔〔〔。
同市同区(現在の同市港区)内の旧制・大阪府立市岡中学校(現在の大阪府立市岡高等学校)に進学したが、満13歳を迎える1915年(大正4年)、満洲(現在の中華人民共和国東北部)を巡業していた新派の赤松武雄が率いる一座に参加、初舞台を踏んだ〔〔〔〔〔。帰国後、1917年(大正6年)に澤田正二郎らが設立した新国劇に参加し、同劇団の中堅俳優に成長する〔〔〔〔〔。その後、中田正造伊川八郎らとともに脱退し、中田正造らの新声劇等に参加、1926年(大正15年)に山口俊雄らが大阪で結成した新潮座にも参加した〔〔〔〔。
満25歳となった1927年(昭和2年)10月、牧野省三(マキノ省三)が主宰する京都のマキノ・プロダクションに入社、映画俳優に転向する〔〔〔〔〔。同年12月31日に公開された同社の正月映画『合点勘次』(監督マキノ省三)に出演、そのときの演技が認められ、直ちに準主役級に抜擢される〔〔〔〔〔。1928年(昭和3年)8月30日(8月19日〔)・9月13日に公開された主演作『旗本五人男』前・後篇(監督吉野二郎)で此村大吉、1929年(昭和4年)2月1日に公開された『水戸黄門 東海道篇』(監督中島宝三)で演じた佐々木助三郎が当初の当たり役であった〔〔〔。
同年7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、小金井は、嵐冠三郎荒木忍南光明根岸東一郎谷崎十郎阪東三右衛門市川米十郎東郷久義市川幡谷實川芦雁桂武男市川新蔵津村博澤田敬之助河津清三郎五味國男岡村義夫らとともに「俳優部男優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 立命館大学、2013年6月10日閲覧。〕。同年11月15日に公開された『浪人街 第三話 憑かれた人々』(監督マキノ正博)に出演、匂坂十次兵衛というニヒルな浪人を演じて「天下一品」と評され、実力が花開く〔〔。この持ち味を生かした役として、1930年(昭和5年)12月5日に公開された『破恋痴外道』(監督二川文太郎)、1931年(昭和6年)2月27日(2月28日〔)に公開された『赤鞘安兵衛』(監督滝沢英輔)が製作され、それぞれに主演した〔〔〔。新体制発表後に入社した四代目澤村國太郎とともに、後期マキノの看板役者として同社を支えたが、その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、同年同年4月以降、製作が停止する〔御室撮影所 、立命館大学、2013年6月10日閲覧。〕。同年4月3日(4月16日〔)に公開された『片手無念流 前篇』(監督根岸東一郎)に主演したのを最後に、小金井は同社を退社する〔〔〔。
同年、東京の巣鴨河合徳三郎が主宰する河合映画製作社に、監督の根岸東一郎とともに移籍した〔〔〔。この移籍に伴い、小金井が暴漢に襲われる事件が起き、松村光夫松尾文人らが目撃しているという〔渡邉, p.151.〕。同社はマキノでの根岸・小金井コンビの最終作の続篇を製作、主演作『片手無念流 第二篇』および『片手無念流 完結篇』(監督根岸東一郎)は、それぞれ同年7月15日・31日に公開された〔〔〔。同年12月4日に公開された『股旅仁義』(監督千葉泰樹)に主演したのを最後に、わずか半年で同社を退社した〔〔〔。
翌1932年(昭和7年)、京都に戻り、東亜キネマの製作代行会社として新設された東活映画社に入社、同年8月7日に公開された『鳥越やくざ道場』(監督宇沢義之)に主演したが、同社は同年10月に解散したため、新興キネマに移籍している〔〔〔。同社でもスター俳優の地位は揺るがず、多くの映画に主演、1933年(昭和8年)5月25日に公開された吉川英治原作による主演作『さけぶ雷鳥』(監督松田定次)で演じた「痣友」役では、特異な性格描写を見せたといい、1934年(昭和9年)2月15日に公開された白井喬二原作による主演作『伊達事変』(監督渡辺新太郎)で演じた「原田甲斐」役では、従来の「原田甲斐」像を革新したと評された〔〔〔。新興キネマと配給提携していた嵐寛寿郎プロダクションの作品に2作出演した1935年(昭和10年)、映画界を退く〔〔〔。
その後は舞台に戻り、1939年(昭和14年)12月、三友劇場阪東扇太郎尾上松太郎のそれぞれの一座と合同公演を行った記録が残っている〔国立, p.447.〕。翌1940年(昭和15年)1月、同劇場で同じく三座合同公演の際、演目の1つとして、本名の「柏井勝」名義で執筆した戯曲『赤穂義士伝 茅野三平』を上演している〔国立, p.451.〕。1941年(昭和16年)8月には、辻野良一の一座に加入し、同月の花月劇場では、『これぞ男の道』『浜の佐太郎』に助演している〔国立, p.602-603.〕。同年11月には、同一座の花月劇場での公演で『晴れ晴れ又八』、同月後半には同じく『黎明絵巻』、翌12月には『三ン下剣法』に助演した〔国立, p.630, 632.〕。
第二次世界大戦終結後、ふたたび映画に出演を始めている〔〔〔〔〔〔。1955年(昭和30年)、東映京都撮影所が製作し、同年6月13日に公開された『弥太郎笠』(監督松田定次)における、進藤英太郎が演じた「大八」の用心棒、「鳶島権十郎」役であった〔〔〔〔。日本映画データベースによれば、同年2月27日に公開された『血槍富士』(監督内田吐夢)に「下役人 銭村」役で出演したとしているが〔、東京国立近代美術館フィルムセンターによれば、同センターが所蔵する同作の上映用プリントに記された同役を演じた俳優は「小金井修」であり、「小金井勝」の名は見当たらない〔血槍富士 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月10日閲覧。〕。満54歳となった翌1956年(昭和31年)11月14日に公開された『鞍馬天狗 白馬の密使』(監督内出好吉)に出演したのを最後に、以降の出演記録は見当たらず、以降の消息も不明である〔〔〔〔〔〔。没年不詳

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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