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グレート小鹿(グレート こじか、本名:小鹿 信也(こじか しんや)、1942年4月28日 - )は、日本のプロレスラー。北海道函館市出身。大日本プロレス会長。生年は1940年ともされる。 == 来歴 == 幼少期に父が失明し、小学3年から行商をしながら家計を助けた。中学卒業後、北海道湧別町の缶詰工場に就職。17歳のとき、後を追いすがる家族を振り切り、一旗揚げたいという思いだけを持って函館駅を目指した。函館駅の青函連絡船の待合室で体格のよさを見込んだ九重親方の後援会の人に声をかけられて一緒に乗船。青函連絡船の船中、腹いっぱいご馳走され、上野駅到着後、後援会の人に連れられ出羽海部屋に入門することとなる。 1963年、相撲界を離れ日本プロレスに入団。同年5月9日(10月13日説もあり〔『Gスピリッツ Vol.31』P31。〕)、駒角太郎戦においてデビュー。当初は本名の小鹿信也として試合をしていたが、1964年からは豊登の命名により、小鹿雷三(こじか らいぞう)にリングネームを変更する〔『Gスピリッツ Vol.31』P32。〕。1967年に大熊元司とともに海外修行で渡米、南部のテネシー地区やジョージア地区などで活動。テネシーでは同年10月、同地区版のNWA世界タッグ王座を奪取している。 1968年に大熊がホームシックで帰国した後も、フロリダ、デトロイト、ロサンゼルス地区などでシングルプレイヤーとして活躍。卑怯なヒール戦法を駆使して憎まれ役としての存在感を発揮した。ロサンゼルスではミル・マスカラスと抗争を繰り広げ、1969年12月19日に金網デスマッチでマスカラスを破り、同地区のフラッグシップ・タイトルだったNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得。翌年1月16日にロッキー・ジョンソンに敗れるまで保持した。 1970年9月に凱旋帰国。アメリカで名乗っていたグレート小鹿をリングネームに、同月25日開幕のNWAタッグ・リーグ戦に吉村道明と組んで出場した。シリーズ中はジャイアント馬場やアントニオ猪木のパートナーに起用されてメインイベントも務め、ニック・ボックウィンクルやアーニー・ラッドとのシングルマッチではアメリカ仕込みのラフファイトで反則負けとなるなどの活躍を見せた〔『Gスピリッツ Vol.31』P35。〕。 春のワールドリーグ戦にも、1971年の第13回大会と1972年の第14回大会に連続出場。いずれも戦績は芳しくなかったものの、第13回大会ではアンジェロ・モスカやゴードン・ネルソンから勝利を収めている〔。1973年3月3日には松岡巌鉄と組んでアジアタッグ王座を獲得したが、当時の日本プロレスは末期状態であり、4月17日のキラー・カール・クラップ&ジェリー・モンティとの防衛戦を最後にタイトルは一時封印された。4月20日には日本プロレス最後の興行となった群馬県吉井町大会のメインイベントに出場している(大木金太郎とのタッグでフリッツ・フォン・エリック&クラッシャー・リバースと対戦)。 日本プロレス崩壊後の1973年6月、全日本プロレスに移籍(正式には1976年3月31日までは、日本テレビと3年契約を結んだ上で全日本へ派遣されており、1976年4月1日付で全日本正式所属選手となる)。9月よりテキサス州アマリロ地区へ再渡米し、カン・フー・リー(''Kung Fu Lee'')のリングネームで活躍、10月18日にテリー・ファンクからNWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を奪取する。同地区ではパク・ソン、サイクロン・ネグロ、J・J・ディロン、キラー・カール・コックスなどと組み、当時ザ・ファンクスが保持していたインターナショナル・タッグ王座にも再三挑戦。グリーンボーイ時代のボブ・バックランドやスタン・ハンセン、そして日本から武者修行に出ていた鶴田友美とも対戦した。 その後は1976年3月26日、復活したアジアタッグ王座に大熊元司と組んで返り咲く〔。以降、大熊との名タッグチーム「極道コンビ」でアンダーカードの一時代を築いた。ジャイアント馬場の試合では必ずセコンドに付いていたほか、一時期は馬場の運転手も務めていた〔。また現役時代からプロモーター業を兼任して、そしてしっかり成功させていたという異色の選手であった。自らの引退興行(1988年7月31日、函館市千代台公園陸上競技場特設リング大会)も自分でプロデュースしている。事業家・小鹿信也の出発点である。 引退後、地元函館で事業を始める傍ら、プロモーター業を継続。後に天龍源一郎に請われてWARの営業部長に就任。巡業ルートの設定などに携わる。また、タレント活動も行なっており、意外なところではミュージカルの出演経験がある(同じミュージカルには、女子プロレスを引退していたミミ萩原も出演していた)。 1994年12月、NOW崩壊の憂き目を見ていたケンドー・ナガサキや登坂栄児(NOW社長→大日本・統括部長)らとともに、横浜市に大日本プロレスを設立し、社長に就任。観客動員に苦戦したことから、1995年に現役復帰。兵隊服を皮切りに、『料理の鉄人』『ゴルゴ13』などのコスプレをしてリングに上がる「コスプレ社長」として注目を浴びた。1997年1月4日には新日本プロレスの東京ドーム大会に登場、マサ斎藤と対戦した。この時の小鹿の衣装はタキシード。 若手が成長するにつれて自らがリングに上がることはなくなり、事業家としての活動が主となっている。2003年11月、宮城県仙台市に「プロレスちゃんこ小鹿」を、2006年4月には「ホルモン小鹿亭」をオープンさせた。また、同年3月から始めた小鹿自身が運営するブログ「小鹿注意報!」が大きな話題となり、12月にはそのブログをまとめた著書『グレート小鹿の「小鹿注意報!」-黄金のプロレス伝説、ここにあり!!』が五月書房から出版された。同年12月31日に行われた後楽園ホールでのインディーサミット2006に、大日本プロレス所属選手としてバトルロイヤルに出場。サポートはあったものの優勝を果たして賞金100万円を獲得、久々に彼の勇姿がファンの前に披露された。 2007年4月30日、「プロレスちゃんこ小鹿」が閉店。開店当初から地元の新聞・テレビに頻繁に取り上げられ、駐車場でプロレス大会を開催するなど一時は話題となったが、同年4月末をもって営業を終了した。それと同時に、小鹿は仙台での3年半の単身生活を終え、横浜の自宅へ戻った。続けて「ホルモン小鹿亭」も同年8月28日に営業を終了した。その後も首都圏に新店舗出店を計画し、この間にも自転車販売や歌手デビュー(WAVE春日萌花とのデュエット曲も発売)と、多くの副業をしようとして、団体経営上副業を快く思わない登坂栄児統括部長(当時)から妨害工作を受けたりする。 2009年からは、大日本プロレスに参戦している佐々木貴らが立ち上げたプロレスリングFREEDOMSに参戦。バラモン兄弟らと「小鹿軍団」を結成しリーダーとしてリングに上がる。同年12月31日から翌元日にかけて行われた『天下三分の計』にも出場。5対5の「ニューリーダー軍vsナウリーダー軍」のニューリーダーとしてTAKAみちのくに勝利した。また108人が参加したロイヤルランブル方式のバトルロイヤルにも20番目の選手として出場。途中退場になったものの全盛期を彷彿とさせるファイトで観客を大いに沸かせた。 2010年7月20日、りほ&ミスター6号と組みDDTの日本海6人タッグ選手権を獲得。同年7月25日、同じくりほ、ミスター6号をパートナーとしてDDTのUWA世界6人タッグ選手権、自由が丘広小路会認定6人タッグ選手権を獲得した。なお、この3つのベルトは、同年11月3日『 “DDTより愛を込めて~新木場5周年スペシャル” 11/3 1st RING大会その5』で、佐藤光留、松永智充、中澤マイケル組に小鹿が松永にフォールを取られ、ベルトが移動している。 2011年7月、大日本プロレス社長を退任、登坂栄児が新社長に就任。小鹿は代表権のない会長になる。2012年、70歳となっても現役レスラーとしてリングに登場。6月には23年11ヵ月ぶりに全日本プロレスに参戦。当時のアジアタッグ王者チームだった関本大介&岡林裕二と組んで6人タッグマッチに出場し、曙、渕正信、浜亮太組と対戦した。 この時期は会長職にありながら大日本の試合に出場しておらず、また星野勘九郎と稲葉雅人が極道コンビへのリスペクトとして「平成極道コンビ」を結成する際も小鹿には話を通していなかった。しかし平成極道コンビのタイトルマッチでは「叔父貴」としてセコンドに立っている。 2013年5月2日のプロレスリングFREEDOMSの興行では、引退期間があるため公式にはされていないが「日本人選手でデビュー50周年を迎えるのは例がない」として『グレート小鹿50周年記念試合』が行われた。2014年には同じFREEDOMSでジ・ウィンガ―とタッグを組み初代のKFCタッグ王座を獲得。71歳でのチャンピオンは、当時の日本プロレス史上最高齢であった。72歳の誕生日となる同年4月28日には久々に大日本プロレスの後楽園大会に平成極道コンビとトリオを組んで出場したが、試合後の挨拶では「僕は知らない間に会長という名を授かり…」と会長就任の経緯を語り、リング上にいた登坂社長を崩れ落とした。 2015年7月20日の大日本プロレス『両極譚』(両国国技館大会)においては、平成極道コンビを従えて横浜ショッピングストリート6人タッグ王座に挑戦。テキサス式四つ葉固めで植木嵩行からギブアップを奪い、73歳2か月22日でベルトを獲得。日本最高齢タイトルホルダーの記録を大幅に更新した 。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グレート小鹿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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