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尹 基協(ユン キヒョプ、1909年 - 1932年8月15日)は、在日韓国・朝鮮人の社会運動家。 == 経歴 == 本籍は咸鏡北道会寧郡(現会寧市)〔典拠は「曾寧郡」であるが、會寧郡(会寧郡)、富寧郡は存在するものの曾寧郡は確認できず、誤植であり会寧郡が正しいと判断した。〕鳳儀面南山洞で、裕福な家庭に育った。1921年日本に渡る。1923年関東大震災後千葉中学校3年に編入され、1927年春卒業。在学中親の事業が失敗して仕送りが途絶え、学校側の配慮で「理科の助手」として雇われ、苦学を経験した。日本大学専門部に入学するが、一時期の通学に終わる。 1930年3月頃、日本共産党の拡大強化に努めたとして、治安維持法違反容疑で在日本朝鮮労働総同盟(在日朝総)幹部らとともに検挙されたが、不起訴処分となった。この時期、東京朝鮮労働組合(東京朝労)の中心的活動家として、東京市深川区木場の製材所に働きつつ、東京東部を拠点に労働運動に携わっており、また、朝鮮共産党日本総局との関係の有無は不明ながら、遅くとも1930年中に再建途上の日本共産党に入党した、とみられる。〔『社会運動の昭和史 語られざる深層』pp.157-159,p171〕やがて日本労働組合全国協議会(全協)傘下の日本土木建築労働組合結成にかかわり、本部委員として積極的な活動をするに至る。全協組合員の30%を超える朝鮮人労働者の中で最も信望の厚い日本共産党員であった。 共産党によって、全協の活動家宮上則武(党名松原)につらなるスパイと決め付けられ、1932年8月15日、下谷区上野恩賜公園で同党の活動家により射殺された(尹基協射殺事件)〔この射殺事件は、32年テーゼの"天皇制打倒"を大衆団体である労働組合に押し付け、それに反対する組合員を排除する、共産党のフラクション活動の中で起こされたものであった。〕〔松原について、1932年6月1日付『赤旗』に党中央委員会名で除名公告が掲載されたが、尹の除名公告はなされていない--『社会運動の昭和史 語られざる深層』pp.129〕。 実行犯とされたのは同年8月17日逮捕された村上多喜雄(治安維持法違反容疑、殺人罪では立件されていない)で、当時共産党東京市委員長。共産党一斉検挙の際、短刀で特高課の警部を刺して逃走中の身だった。一審では無期懲役、二審で転向を表明して懲役15年となった。村上は獄中で「尹は絶対にスパイではない」「自分は取り返しのつかない誤りを冒した」「党中央にはスパイがいるに違いない」と確信して「死を賭した叫び」を党中央の紺野与次郎に伝えるが反応がなかったという〔増山太助『戦後期左翼人士群像』pp.186-188〕。村上は1940年、江古田療養所で腸結核により死去。 尹をスパイと断定して射殺させたのは、共産党史上最大のスパイといわれる飯塚盈延(「スパイM」、党名松村)であったという〔増山太助『戦後期左翼人士群像』p.150〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尹基協」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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