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尼子秀久 : ウィキペディア日本語版
尼子秀久[あまご ひでひさ]
尼子 秀久(あまご ひでひさ、生年不明 - 慶長14年12月2日1609年12月27日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将尼子氏の家臣。尼子晴久の四男。兄に又四郎(夭折)、義久倫久、姉妹に三沢為清室などがいる。
天文23年(1554年)に月山富田城にて連歌会が行われた際に、参前祈祷会が執り行われたという記録があり、これが秀久のことを示していると思われる。
永禄5年(1562年)から毛利氏による出雲国侵攻を受け、最終的に月山富田城に籠城すると、秀久は宇山久兼佐世清宗らを率いて菅谷口を守備し、小早川隆景らと戦うが一歩も引かず奮闘した。永禄9年(1566年)、当主・義久は降伏し月山富田城は開城。秀久も兄に従い安芸国に移送され、長きにわたり幽閉されることとなる。
天正17年(1589年)に幽閉が解かれると客分として毛利氏に遇され、安芸国内に居館を構えた。以後毛利家臣として、豊臣氏による文禄・慶長の役にも従軍している。
慶長14年(1609年)に死去した。法号は藤樹院殿喬山乗心大居士。墓所は山口県阿武町奈古の大覚寺にある。子孫は後に佐近姓(又は佐古姓)を名乗り、福定村(現在の鳥取県境港市福定町)へと土着した〔『福定町誌まがりまつ』〕。
== 脚注 ==




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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