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尼子通久 : ウィキペディア日本語版
尼子通久[あまご みちひさ]
尼子 通久(あまご みちひさ、天文23年(1554年)? - 天正6年(1578年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将尼子氏の家臣。尼子誠久の六男とも尼子敬久の子ともされる。子は久邦
家中を代表する鉄砲の名手だったという。主君尼子晴久の手で新宮党尼子国久一族が殺害されたため、他国に逃亡。蜂須賀氏の家臣と成り鉄砲頭となる。
天正5年(1577年)、尼子勝久山中幸盛らとともに尼子氏の再興を賭けて毛利氏と戦うが、天正6年(1578年)の上月城の戦いで敗北し降伏。反乱の首謀者の1人として勝久・氏久神西元通と共に自刃した。
一説には通久は勝久の弟とされ、伯耆国(現在の鳥取県西部)へと落ち延び、通称を田子甚左衛門と称し、慶長9年(1604年)4月10日に48歳で死去したという、現在も伯耆国に通久が開基となって建立した正雲寺(曹洞宗)が残っている。
墓所は不明だが、位牌には祥雲院殿久旦圓通大居士と彫られている。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「尼子通久」の詳細全文を読む



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