|
尼港事件(にこうじけん、, Nikoláyevskiy Intsidyént, Nikolayevsk Massacre〔『尼港事件と日本社会、一九二〇年』p. 1〕)は、ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクをパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名〔、朝鮮人1,000名〔〔、中国人300名〔)(参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400-500名、中国人900名〔『大正七年及至十一年西伯利出兵史 復刻版中巻』p. 833、p. 836〕)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると〔〔辛亥革命之後哪一年中國版圖最大? 中国評論新聞網 2010-08-27〕、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた〔『ニコラエフスクの破壊』p. 2 米訳者前文〕。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた〔『アムールのささやき』pp. 207-232〕。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。小樽市の手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑、また天草市五和町手野、水戸市堀原、札幌護国神社にも殉難碑がある〔『アムールのささやき』pp. 295-305〕。 == 事件の背景 == === シベリア出兵の混迷 === 1918年(大正7年)8月に始まった日本のシベリア出兵は、アメリカ合衆国の呼びかけによる共同出兵であり、当初はアメリカの提議に従って「チェコ軍団救援」を目的とし、「ロシア内政不干渉」を謳ったものだった。しかし、チェコ軍団は赤軍と戦闘状態にあり、ボリシェヴィキ政権とは敵対していたので、ロシア内戦への干渉なくして救援は不可能であり、そもそもアメリカの提議自体に大きな矛盾があった。〔『初期シベリア出兵の研究』pp. 22-30〕 つまりシベリア出兵の前提は、対独戦の一環としてのものであったが、1918年末には、ドイツ軍と連合国軍との間に休戦協定が成立し、チェコスロバキアも独立を果たして、前提が崩れた。そのため、連合国側、主に英仏は、反ボルシェヴィキを鮮明にし、日本もそれに同調して、反革命派によるロシア統一をめざしていたが、反革命派のコルチャーク政権(オムスク政権とも)は一年ほどしか続かず、1919年末に崩壊した。〔『初期シベリア出兵の研究』p. 192〕 1920年1月9日、アメリカが単独撤兵を通告してきたが、これは日本の出兵にとって大きな転換点となった〔『尼港事件と日本社会、一九二〇年』〕。この1月から2月にかけ、革命派の勢力はニコリスク、ウラジオストク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクの反革命勢力を倒し、それぞれに地方政権を掌握した〔『総力戦とデモクラシー』p. 259〕。1月17日付、陸軍大臣の指示により、日本軍は中立姿勢をとることになったが、不穏な情勢の中、それまで反革命側に肩入れしてきた現地日本軍は困惑した〔『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922』p. 513〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尼港事件」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nikolayevsk Incident 」があります。 スポンサード リンク
|