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尾崎 翠(おさき みどり、1896年(明治29年)12月20日 - 1971年(昭和46年)7月8日)は小説家。 作家活動は短かったが、今なお斬新さを失わぬ彼女の作品は、近年になり再評価が進んでいる。 == 略歴 == 鳥取県岩美郡岩井村(のちの岩美町岩井温泉)に生まれる。父は教員、母は寺の娘。 1909年(明治42年)、父が急死。 1912年(大正元年)、「たかね」に詩歌を発表しはじめる。鳥取高等女学校を卒業。小学校の代用教員となり、「文章世界」への投稿をはじめる。 1917年(大正6年)、「少女世界」に少女小説を発表しはじめる。 1919年(大正8年)、日本女子大学国文科に入学。親友の松下文子と出会う。 1920年(大正9年)、「新潮」に『無風帯から』を発表したことを大学に咎められ、中退。 1921年(大正10年)、松下文子宅に同居し、出版社に勤めるが、続かず、数ヶ月で断念。その後も上京時は松下文子のもとに身を寄せる。 1926年(大正15年)、橋浦泰雄・白井喬二・生田長江・生田春月らと鳥取県無産県人会に参加。 1927年(昭和2年)ごろ、映画梗概『琉璃玉の耳輪』を執筆、阪東妻三郎プロに採用されるも映画化は実現せず。林芙美子らと交流。 1928年(昭和3年)、松下文子が結婚。しかし友情と交友関係は生涯にわたる。 1929年(昭和4年)、戯曲『アップルパイの午後』を書く。 1930年(昭和5年)、「女人芸術」に映画評『映画漫想』を連載。 1931年(昭和6年)、「文学党員」に『第七官界彷徨』の半分強が掲載され、板垣鷹穂に求められて「新興芸術研究」に全篇を掲載。短篇「歩行」も発表。 1932年(昭和7年)、短篇「こほろぎ嬢」「地下室アントンの一夜」発表。心身ともに変調をきたし、故郷の神経科で療養。 1933年(昭和8年)、『第七官界彷徨』刊。鳥取で出版記念会が催され、健康を取り戻した尾崎翠も出席する。 1941年(昭和16年)を最後に書いたものを発表しなくなる。これに先立ち母の介護、看取りにかかわったことが、発表された記事から推測される。その後、母方親族とともに、甥姪の成長を見守り、戦争と震災(鳥取地震)の被害を乗り越える。 1956年(昭和31年)、末妹忍が死去。遺児を引き取る。寺田寅彦、獅子文六、北杜夫らを愛読する。 1969年(昭和44年)、花田清輝・平野謙の推奨で「全集・現代文学の発見」6『黒いユーモア』に『第七官界彷徨』が収録される。 1971年(昭和46年)、薔薇十字社より作品集刊行の連絡。刊行を前にして肺炎で死去。橋浦泰雄と弟橋浦時雄らの生協運動の理念の延長のもとに創設された鳥取生協病院で、最後の時を迎えた。享年74。墓所は鳥取県鳥取市職人町の浄土真宗本願寺派養源寺、母方親族山名家が住職をつとめる寺院である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尾崎翠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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