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尾崎 谷斎(おざき こくさい、1835年(天保6年) - 1894年(明治27年)2月21日)は、日本の伝統工芸品のひとつである根付師である。武田谷斎とも名乗った。本名尾崎惣蔵。 初め茶道具の目利きを習い、その後21歳で浅草派の玉陽斎光雛に根付を師事。1859年まで4年間修行する。弟子二人。象牙よりも鹿角を好んで使用。仏具・蝙蝠・霊芝(茸)の作品が多い。その独特な作風(「谷斎彫り」といわれる)で時代の人気を得、当代人気番付にも頻繁に登場、谷斎ものを持たない芸者は本物ではないとまで言われた。具材の安い鹿角に芸術的価値を持たせることが谷斎の本領であり、作品自体の特異性に加え、作者名の刻印に特徴がある。根付師としての活動は1870年前後が中心であった。 9代目市川團十郎が、注文してからなかなか届かないことに痺れを切らして、金に困っているのだろうと、金十両を送りつけると、谷斎は、馬鹿にするなと怒ってその小判に「金十両確かに受領せり」と彫って送り返したという逸話がある。 別名「赤羽織の谷斎」として柳橋や新橋界隈では有名な幇間であった。幇間仲間には、「武田安五郎」で通っていたと旗本出身の幇間松廼屋露八(本名・土肥庄次郎)は回想している。芝で米問屋(呉服屋説も)「伊勢屋」を営んでいたとされるが、米騒動の頃閉めたものと推定される。谷斎には旗本出身説もある。谷斎の門柱には4つ以上の表札がかかっていたと言われているが、その使い分けは不明である。 荒木舜庵の娘庸と結婚し、二児を儲けるも、庸が若くして亡くなると、後に平井定吉の娘とくと再婚。 長男が作家の尾崎紅葉であるが、紅葉は幇間としての父の存在を公にしたくなかったようで、父についての言及はほとんどなかった。尚、紅葉は実母の死後祖父舜庵祖母せい(せん)に育てられた。紅葉は継母との関係は良かったようで、墓碑には尾崎紅葉母とくとあった。 尾崎家の墓は赤坂円通寺にあったが、第二次世界大戦後無縁塚に移転された。時代を経た家紋付の立派な墓であったという巌谷大四の記録もあり、商家(又は旗本)としてはそこそこの家柄であったものと推定される。 戒名は法寿院麗徳日融信士。死因はふぐ中毒死である。遊び仲間の講談師ら3人で品川に漁に行きその場で船頭に料理させて食べ、当日晩に亡くなった。尚、紅葉の墓は青山墓地にある。 ==外部リンク== *尾崎紅葉家研究 category:1894年没 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尾崎谷斎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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