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尾形月耕 : ウィキペディア日本語版
尾形月耕[おがた げっこう]

尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6年9月15日〔息子の尾形月山の手記では9月10日(『Bien(美庵)』Vol.45、pp.14-15)。〕〈1859年10月10日〉 - 大正9年〈1920年10月1日)とは、日本の明治から大正期の浮世絵師日本画家
== 経歴 ==
安政6年9月15日(1859年10月10日)〔『浮世絵の見方事典』は生年を安政5年(1858年)とする〕、名鏡清次郎の子として江戸京橋弥左衛門町(現在の銀座4丁目3番地)に生まれる。本名・正之助。別号・桜斎、名鏡斎、華暁楼。名鏡家は葛飾地主で、祖父長兵衛は大名家江戸屋敷、豪商に人材を斡旋する口入屋と、塵芥蒐集の利権を握り、「江戸の三長兵衛」のひとりと謳われるほど羽振りが良かった。しかし、数え17歳で父を失うと、利権も他家に移り家は没落する。
絵は父の強い奨めにより独学で学び、菊池容斎に私淑して『前賢故実』などを学ぶ。京橋弓町で提灯屋を営む一方、「絵ビラ」を描いて主な絵草紙屋を周り、錦絵を描かせてほしいと頼み歩いたという。吉原遊廓の絵びら、人力車蒔絵七宝濤川惣助に称揚され輸出向けの陶器の下絵などを描いて画技を磨く。そうした中で明治10年(1877年)ごろ『征韓論』(名鏡斎季邑『建白御評議之図』)と称される三枚続の時事物錦絵を自費出版し(河鍋暁斎の目に止まりその推薦を受けたという説もある)ヒット、名鏡正之助の名は少しずつ知られるようになる。
明治14年(1881年)ごろには、琳派の系統尾形光哉の家姓を襲名して尾形を名乗る。明治15年ころより尾形月耕名で単行本やボール表紙本の挿絵をはじめ、「絵入朝野新聞」など新聞の挿絵を手掛け、また多くの文芸雑誌の口絵を描いて一躍人気画家の仲間入り果たした。明治18年(1885年)7月の「東京流行細見」に示された浮世絵師の細見では、23人中月岡芳年小林永濯落合芳幾豊原国周鳥居清満三代広重に次いで7番目に挙げられている。浮世絵系の師弟関係の埒外にあり、しかもデビュー間もない時期であることを勘案すると、かなりの高評価といえる。一方で肉筆画の研鑽にも怠りなく、明治17年(1884年)結成の鑑画会に参加し、翌年の第一回展では『仏師運慶の図』を出品している。
明治20年代には水野年方とともに新聞挿絵の双璧として絶大な人気を得る。小説の挿絵も手掛け、明治20年(1887年)刊行された改進党末広鉄腸政治小説花間鶯』、翌年二葉亭四迷の『浮雲』第二編、同年山田美妙の『夏木立』などを担当した。錦絵シリーズでも『月耕随筆』、『源氏五十四帖』外国向けの『明治美人風俗礼式』などを出版、日清戦争の錦絵も描いた。著書(大判木版シリーズ)として先述の他に、明治27年(1894年)1月から同36年(1903年)8月までの約10年間に渡り刊行された『月耕漫画』3編21巻などが代表作として挙げられる。家庭では、明治21年(1888年)先妻とよと離婚し、紀州藩御殿医・田井俊斎の娘で弟子の田井喜久と再婚、本姓が名鏡から田井姓となる。
明治24年(1891年)に日本青年絵画協会の結成に参加、翌年の第一回展では審査員に推挙される。同会改組の日本絵画協会展、日本美術院(創立には正員として参加)との連合絵画共進会も含め、一等褒状や銀杯、銅牌を重ねた。明治31年(1898年)の日本美術協会の『曽我夜討』は明治天皇の御買上。海外の万国博覧会にも積極的に参加し、明治26年(1893年)のシカゴ・コロンブス万国博の『江戸山王祭』をはじめ、明治33年(1900年)のパリ(銅牌)、明治37年(1904年)のセントルイス、明治43年(1910年)の日英博覧会に出品した。大正元年(1912年)には第6回文展に53歳で『山王祭』を初出品(三等賞)し、話題となる。大正9年(1920年)10月1日、牛込新小川町の邸にて歿(満60歳)。墓所は豊島区雑司が谷霊園

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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